取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「橋」で検索した結果,355件の記事が見つかりました。

藤の棚橋(ふじのたなはし)(福田)

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 藤の棚橋は、昭和2年(1927)3月建設。旧国道53号(市道佐良山181号線)沿いに皿川に架かる長さ24.3mのRC桁橋である。国道は幅員を広げるため、橋を含む250mほどの区間が東側に新設・移行され、現在では近隣住民が利用するのみとなっている。親柱や束柱には桃色花崗岩の万成石が使用され、アールデコ風のデザインが施されている。橋脚は昭和初期らしい華奢な印象の形状で、架橋当時のままである。高欄の大きな開口部には鋳鉄グリルがはめ込まれていたそうだが、現在は戦時中に供出された痕が痛々しく残るのみである。(文:岡山県の近代化遺産より)

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楢村の稲荷様(楢)

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 稲荷大明神を祭った社が鷹(高)山にあり「稲荷様」と呼んで楢村の商売繁盛の神として村の人たちに敬われていた。山の北面中腹に岩倉を背にして社がつくられ、西側の近長道から鳥居をくぐった参道が右折して2,3段の石段を上がるともう一つの鳥居がある。そこから15.6mの石段を上ったところに社がある。

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統合井堰(草加部)

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 成名地区は加茂川が平野になる扇状地の要のところに位置している。
加茂川にはたくさんの井堰があり上流からいえば桜橋の上手の野村井堰、桜橋下流にあった牛の子井堰、本郷橋の上手にあった福井井堰など多くの井堰がありましたが、昭和50年頃どの井堰も全部取り除き龍ヶ爪のところに統合井堰が作られ、津山市上水道に一日2万5千トンの水を分水してこの統合井堰から津山市東部地区の上水道用の水を取水するようになりました。この取水ができるまでには、多くの関係者の知恵と多額の費用がかかりましたが、5つの井堰(野村、福井、牛の子、才勝、大井手)の農業用水路は地下方式(パイプライン化)となり、各田んぼでいつでも水が取れるようになり、大変便利になりました。(文参考:むかし高野)2015年3月16日、4月2日取材

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)のエピソード

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)

 箕作秋坪は1825(文政8)年に菊池士郎と多美の二男として備中国下呰部村(あざえむら)に生まれました。13歳で父を亡くしますが、17歳頃から父の旧友・稲垣研嶽(いながきけんがく)の下で漢学を学び、さらに江戸へ出て箕作阮甫(みつくりげんぽ)に弟子入りしました。

 1849(嘉永2)年には、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。この時にはもう箕作家の養子になることが内々に決まっていたようです。翌年、藩に正式に養子として認められ、さらにその翌年、江戸へ戻って阮甫の三女つねと結婚。新進の医師として活動を始めました。この時秋坪は27歳でした。

 翌1852(嘉永5)年には、藩主松平斉民(まつだいらなりたみ)のお目見えもいただきました。

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桜橋(津山市楢)

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 旧因幡往来が加茂川を渡るところに桜橋がある。楢部落の入り口である。楢部落は古くから物資の集散地として栄えていたところである。
 桜橋を東に渡ると川岸に立派な石垣の高燈籠がある。かつて川船の出入りしていた川船港である。加茂川の川船港としては終点である。

 森藩時代は加茂の小中原まで舟が通じていたが、松平藩の時代になり、加茂谷が天領となったので舟運は衰えている。しかし、いかだなどは通じていたようである。この港からは、川下に向かって木材、木炭、米、豆、綿、紙、油、川魚、鉄などが運ばれていた。もちろん旅人も利用している。

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因幡往来の道しるべ(押入)

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 下押入の県道兼田上横野線の山西境のところに、元禄年間(1688~1704)に、つくられた花崗岩の道標が立っています。(字建石)
 この道標は、東はいなば道、西は加茂道と書いてあります。東はいなば道はわかりますが、西加茂道というのは、」ちょっとふしぎな気持ちがします。西は、津山城下の方角だからです。
よくしらべてみると、道標の西の方、鹿の子橋の手前で、北に行く古い道があります。

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源四橋(押入)

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源四橋
因幡往来が、下押入の古川をまたぐところに、源四橋がかかっています。この橋には、人の名前がつけられています。
江戸時代のおわりごろ、野村に、保田源四郎という人がいました。そうとうなお金持ちだったのですが、子どもができなかったそうです。
源四郎さんは、のちのちまで人々のやくにたつことをしておきたいと考えました。そこで、旅人の安全を考えて、下押入から野村までの因幡往来に、七つの石の橋を自分のお金でかけたといわれています。

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能万寺古墳群(きつね塚遺跡)(津山市押入)

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狐塚遺跡(きつねづかいせき)
 この遺跡は古墳時代後期(七世紀前半、約1300年前)のムラの跡です。津山東中学校の建設に先立ち津山市教育委員会が1973年に発掘調査しました。
 東西100、南北30mの調査範囲から竪穴式住居址二五軒、建物跡十一軒が発見されました。これらの遺構からは鍛冶炉とともに多量の鉄滓(製鉄や鉄加工をした時に残る鉄かす)が見つかりました。鉄滓には、製鉄をした時にできる製錬滓があることや、鉄鉱石の破片が住居内から出土したことから、このムラに住んでいた人々は、製鉄や鍛冶にたづさわっていたことがわかりました。(前回の取材

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明治時代に「押入」と「小原」に温泉があった。

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地元に残る、温泉街の古写真、東方向から 明治時代の撮影で押入の古川沿い、因美線の鉄橋近くにある明治時代の温泉跡です。(写真他資料提供:赤坂健太郎さん)


 津山市出身で岡山市在住の赤坂健太郎さんが「苫田郡誌」で「小原と押入に冷泉があった。」とする記述を発見し、その謎を解くため紙面を通じて言い伝えなどを募ったところ、小原冷泉は郡誌の記録通り現在の大月公園南東側にあったらしく、近くの清水洋一さん宅では温泉の存在を証明する古い試料を大切に保管していたという。

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津山の今昔を辿ってみました。(1)

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前回の特集から、ちょっとたどってみました。(2011年9月8日~2015年1月20日最終)

実際に正確な位置なのか定かではございませんが、ここかな?と勝手に行ってまいりました。

昔の写真提供は塩山さんです。位置情報の提供をいただいた皆様ありがとうございました。

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