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嵯峨山(さら山)城跡、満開のつつじ

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▲2011年4月22日の美作国嵯峨山城跡は、つつじが満開です。(2011年3月に登ったときの様子)

久米の佐良山については作陽誌に【嵯峨山城跡とは】
「佐良山付古城 在中島村倭歌の詠ずるところの久米の佐良山はこれなり。一名嵯峨山と名づく。或人は言う、篠山と嵯峨山とは相去ること遠からず。何れがその佐良山たるかを詳しくせず。しかも篠山は佐良山村に在り、嵯峨山は中島村在る。佐良山に在るを以って真となすべきと言う。この説は是ならず。古は中島村、古城村、暮田村、佐良村は一村なり。総べてこれを佐良村と言う。近来邑里分割し山川の隋判は其原を詳しくせず、これに疑有り。今山上を縦目するに、風景は嵯峨山を勝となす。真の名山はただこの山なるかと記されている。
  なお篠山をもってこれに擬し、或いは神南備山をもって佐良山に擬するなど諸説に分かれているが、この嵯峨山には文化13年(1816年)秋8月に小島広厚誌、太田貞幹書両氏により佐良山の碑が建立されている。この碑文によると、一応この山をもって佐良山としている。

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津山城(鶴山公園)さくらまつりイベント

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▲2011.4.17(日)津山さくらまつりのイベント会場

多くのお客様にお出でいただきお陰さまで完売となりました。ありがとうございました。

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構城址【津山市院庄地区】

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構の城(2011.4.16貞考母子の碑より望む)
 津山市院庄字構にあり、一町四方が城域となっている。はじめ院庄城といったが築城の年代は明らかではない。
 正平15年(1360)、山名時氏とその子師義は兵4千5百騎を率いて赤松貞範の属城を攻めようとして、その将小池中書、福依八右衛門を篠向城(真庭郡久世町大庭)に、淀井丹波守、武田刑部左衛門を高田城(真庭郡勝山町)に向わせ、自分は精兵をもって院庄城を囲んだ。城兵は僅かに六百余りであったので、城将江見八郎兵衛景信および住井吉行、渡辺刑部少輔等は敗死して城は落ちた。村の東南に墓趾があり、この地を吉行といっている。正平17年6月(1362)、山名時氏はまた兵5千を率いて院庄に入り、近国の諸将を招いて備前備中の諸国に向かった。
 その後康正2年(1455)、城将山名掃部頭の上洛の虚に乗じて赤松氏の将中村五郎左衛門が来攻した。掃部頭の子は戦に敗れ城を棄てて伯耆に逃れた。次いで山名氏が大挙来襲し互いに勝敗があって、戦の止むことがなかったという。

元亀2年(1571)、宇喜多氏の将花房職秀が来攻して杉山為国と戦ったが為国は戦死し、職秀の将難波信明もまた戦没した。その墓趾は院庄の西方西町にある。
これより後院庄城を改めて構城とし宇喜多氏は片山秀胤にこれを与えた。天正11年(1583)6月、毛利の兵が構城を攻略したので宇喜多の将花房職之兵を率いて構城を囲み奪い返した。秀家は芦田馬之丞およびその子作内に命じてこれを守らせた。
宇喜多氏が亡んで、慶長8年森氏が入封するに及んで構城を修築しようとして1年余り院庄に留まったが事情があって中止し、今の津山に築城した。寛永15年(1638)、その城跡を壊して大部分を農地とした。
注 天正年間、作備線(現在の国鉄姫新線)の敷設工事のため土砂が掘り採られて、今は本丸跡の一部を残して農地となった。現在その一角に貞考母子の碑が建っている。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

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貞孝母子の碑【津山市院庄地区】

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貞孝母子の碑(2011.3.22)
 大字院庄の構城趾にある。
 文久の頃院庄に島田馬之丞というものがあったが、生来病弱で農耕もできないため家運も傾いていたが、妻と娘は昼は野良仕事をし、夜は内職等して一日たりとも休まず一生懸命働いて家計を維持していた。
 馬之丞は家族の苦労を見かねて、つい出来心を起し他家の酒粕を盗んで売り家計を助けようとしたが、発覚して捕まえられ獄に投ぜられた。母子は大いに悲しんで夫の身代わりとなって家の恥を辱ごうと決心し遺書を認めて、酒粕を盗んだのは自分等母子であって父親は無実であることを訴えて母子共に自害して果てた。時に文久元年4月29日であったという。
 遺書は郡の役所に差し出されたので、官では母子の心情を憐んで馬之丞を釈放し、村人に命じて母子を手厚く葬らせた。
 馬之丞は悔悟剃髪して院庄清眼寺に入り、母子の冥福を祈ったという。
 たまたま津山藩士鞍懸吉寅(後、津山藩権大参事となる)の知るところとなり、慶応3年その七回忌にあたり、院庄構城趾に建碑して「貞烈純孝島田母子之碑」としたのである。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

 

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篠山城跡【さら山地区】

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▲篠山城跡(2011.4.10)

  早春の佐良山の東面に位置する山々は、可憐な白い花弁を一杯に広げた純白の「辛夷」の花で彩られます。その中でも一番美しい群生を見せる場所として、「篠山」があげられます。
 佐良山には「佐良山三座」と称される山々があります。「嵯峨山」「神南備山」そしてこの「篠山」です。古歌に「美作や久米のさら山さらさらに わが名は立てじ萬代までに」と謡われた「久米のさら山」を巡って、諸説が飛び交いいまだ決着を見ていない佐良山を取り巻く秀峰をいつしか「佐良山三座」と呼ぶようになりました。
 ちなみに嵯峨山には、これぞ「久米のさら山」であるという「佐良山碑」(市文化財)が津山藩により1816年に建立されていますが、それはそれとして佐良山の人たちはこの美しい山々をこだわりなく誇りに思っていると思われます。

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千年寺

名を長継山千年寺といい、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されていました。
現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/sennenji/index.html

成道寺

慶長9年(1604)に津山藩主の森忠政建立したお寺。表門は明治35年各個(1902)に元津山藩庁ならびに北条県庁の門を譲り受けている。元津山藩庁の門だけにあって、普通の仁王門とは違い、頑丈な扉と北側に番士部屋のある厳重な構えになっています。本尊は阿弥陀如来。
津山を代表する俳人西東三鬼の墓碑があるそうです。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/jyodouzi/index.html

美作国嵯峨山城跡

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▲2011年3月4日(金)午前6時に集合して美作国嵯峨山城跡へ行きました。(往復約40分)

正面に見えるのは津山城「鶴山城跡」です。皆さんもいかがですか?私にとって新しい発見があり、また、とっても清々しい朝となり幸せな気分で一日が過ごせました。【4月満開のつつじ】 【嵯峨山城跡とは】

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阿波八幡神社

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花祭りの起源と阿波八幡神社(2010.11.3)
阿波八幡神社は、JR因美線美作河井駅より北へ約4キロメートル、旧阿波村(現津山市阿波)字位登山(大ヶ山の東麓の端)鎮座する。主神は誉田別命(15代応神天皇)で、足仲彦命(14代仲哀天皇)・息長足媛命(神功皇后)を配祀した神社である。
口碑によると、慶雲2年(705)、現在の地より少し南に鴨神社が創祀されたと伝えられており、平城天皇の大同元年(806)8月15日筑紫の国(大分県)の宇佐八幡宮の分霊を勧請し、合祀して八幡宮と称し現在の地位登山に移遷したものである。(先年、阿波村文化財保護委員が宇佐八幡宮に行って分霊勧請の記録を確認している)
八幡宮は武神としてのソ崇敬も顕著になり、尼子晴久の中国経略に際しここ美作にも侵入し、さらに播磨の国に出兵する際戦捷を祈願して阿波八幡宮の社殿を焼き払い、その後、戦捷奉實のための家臣村上左京進時泰に命じて社殿を再建した。
弘治4年(1558)年6月のことである。(社蔵の棟礼による)
当時の社殿は、宮4間4面、高さ3間1尺5寸(神主兵部より森美作守への上申書による)とあり、結構壮大な社殿であった。
現在の社殿は寛延2年(1749)村内氏子中により再建されたものである。
高山城(矢筈山)主 草苅景継は良(鬼門)の鎮護として崇敬し社領を寄進し、津山城主森忠政も城の民の鎮護として崇敬したという記録も伝えられている。(2010年 阿波神社の花祭りの様子
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