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取材記事内を検索ワード「中山神社」で検索した結果,86件の記事が見つかりました。

中山神社の鉾立(ほこたて)石

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 中山神社は西国壱の軍神(厳島・吉備津と並んでその筆頭)であり、天下の大変・大乱に際しては朝廷より全国7社の一つとして特別の護国祈願を仰せつかる。例えば天慶2年(939年)平将門の乱、弘安4年(1281年)の元寇など。その祭事は格別の秘儀で、現小原地区内大築公園あたり、昔は鬱蒼たる「雫が森」その中に中山の離宮たる大築神社があった。
 秘祭「鉾立て」に神事は大築の境内で行われた。中央に大鉾、四方に小鉾を立て、大鉾前に祭壇を設けて荘厳神秘の深夜の祭典であったという。鉾立石はそれらの鉾を立てた基石で、上面中央に凹みがある。
 現在中山神社境内本殿南(国司神社)の段に、有志による由来記の碑とともに、その一石が置かれている。また祭事の行われた雫が森の跡あたりにもその一つが置かれ、地元の有志による説明板が立っている。 中山境内の石と小原のそれとは鉾立の凹みの形状が異なる点も興味を引くところである。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日撮影)

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羽留石(はどめいし)

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 中山神社の北側を流れる鵜羽川に二抱えほどの大きな岩がある。
神社伝説によると「中山の神が霧山の磐座にいたとき、永代鎮座の場所を定める目的で鵜の羽を流し、止まった所に居を構える」とした。長良川の麓の石で止まり、『羽留石』として今でも里人の寄進による注連縄が張られている。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日取材)

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龍の口(津山市一宮)

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 一宮地域の出入り口に当たる「龍の口」は、昔は大きな奇岩と深い渕とで人馬の通行はとうてい不可能であった。近世になって里人の願いでやっと岩を切り開いて僅かに人びとの通路ができたのは元禄4年(1691年)で、さらにその後里人たちは総力を集めて路面を大きく拡げ、明和末年(1771年)頃には、中山神社の大鳥居の石材運搬の大車の通行も可能となり、それと前後して川岸の堤防も完成して、今の一宮道ができ上った。
 幕末に国事多難となり、津山藩は城郭の北の護りとして、ここに関門と番所を設け、番兵を常駐させ、厳しく往来を取り締まったが、明治2年(1868年)の廃藩により撤去した。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日撮影)

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創置美作国1200年碑

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 奈良時代の初め、和銅6年(713)に備前の北半6郡を割いて新たに1国を創置、美作国とした。苫田郷に国府を置く。政治、経済、軍事および文化の各般にわたり中枢となる。
 明治45年4月創置美作国1200年記念式典を中山神社で挙行、このことを碑文に詳記している。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日撮影)※詳しくはここをご覧ください。

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千年寺の石燈篭両基

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 長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山 市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(撮影2017年4.月12日)(2014年の取材)

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一宮市場跡(東一宮)

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一宮の市といえば直に牛馬の取り引きと考えられるが、昔は牛馬は勿論各種の生活物資等の交易が行われた。最初は自分の作った品物を他の需要者に提供し、自分の欲しい物と交換したもので、神社の祭日などを利用して行われるようになった。従ってその市を監督し面倒を見、これによって利益を得る者も出て来た。後には仲介者としての商人もでき、いわゆる門前市場の成立に至った。市が栄えるとその群衆を当て込んで旅籠屋や飲食店が開かれ、遊芸人までが寄ってくる。またその遊芸人によって慰められるべく娯楽気分で群衆が一層盛んになってくる。その上一宮の市は美作の自然に良く適応している牧畜業と古い信仰の伝統との結合によって発展してきたのである。
「一宮の市」は4月中の牛の日から5月4日に至るまでの「お田植え市」である。
 作陽誌には『4月中ノ牛ノ日ヲ御田植ト為ス、社僧大般若経ヲ転読ス、此ノ日ヨリ5月5日二至ルマデ四方ノ商売者雲集シ衣服器用医薬食品及ビ馬駒犢牛ノ類争イ以テ交易ス、傀儡俳優小娼遊技擾々トシテ羶ヲ附シ十数日ノ間往来蟻然タリ、是ヲ一宮ノ市ト謂ウ』
 これら一宮の境内より構屋敷までの間を小市となし、牛馬など大市となし東一宮の市場町で開かれた。太平洋戦争後この市場はなくなり一宮公民館が建ち地域に活用されたが、平成になって一宮小学校跡地に移転したので、更地になっている。(作陽誌、美作一宮郷土の歩み)

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美土路家の屋敷神・構屋敷跡(一宮)

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 津山市街から北に向かって行くと、中山神社の近くにある難波酒造手前の一角にある。本光寺住職にお聞きすると、元々は美土路家の屋敷神だったそうです。昔美土路家はとても広大な土地を所有していたそうで、ここも屋敷の一角だったそうです。(2016年2月3日・2017年2月8日・6月13日撮影)
 「美作一宮 郷土の歩み」に『城所屋敷』の記述がある。美作の守護であった赤松氏の重臣城所備後が居を構えていたとのこと。後に中山神社に仕える泉氏、その後を美土路氏が居住した。古老によれば「一町四方の土塁と堀に囲まれていた」と。里人たちはその一画を「構屋敷」と呼んだ。
 現在残る痕跡としては、現「難波酒造」敷地内に残る東西15m、高さ3m近い土塁の一部があり、最近まで公会堂東にあった防火用水プールもその堀の跡であったようだ。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)

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一の矢橋(東一宮)

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昔、中山神社の「流鏑馬」の神事が行われた時、この橋から一に矢を放っていたと伝えられる。(難波酒造前の橋)。なお、後に人の往来が多くなり、この儀式は一宮構えの西側通路にて行われるようになった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)

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大庄屋中島家跡(東一宮)

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大庄屋中島家跡 津山市東一宮(現中島遊園)
 ここは藩政時代の「大庄屋中島家累代の屋敷跡」である。初代中島孫左衛門は戦国の末期にここに住み、領主宇喜多氏に禄仕した。関ヶ原の戦いに敗れ宇喜多氏除封の後、武を捨て、営農に励み、森・松平両候のもとで大庄屋となり270年の間、その職を世襲し、農村の発展民利の増進の実を挙げ郷土繁栄の基礎を築いた。
 その担当地域は、一宮構と呼ばれ東一宮・西一宮・大田・籾保・上横野および下横野の6ヶ村で、ここが支配の中枢であった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)

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中山神社の御神鏡の拓本と大正3年の写真

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2017年2月7日に中山神社の近くに住む森玄保さんに中山神社にまつわる貴重なお話を伺って来ました。上記の写真は大正3年に建てられたもので、当時の中山神社の拝殿には壁がなかったそうです。それから徐々に現在のような姿になってきたそうです。(大正3年の写真には拝殿の壁がない。)

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