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取材記事内を検索ワード「山城」で検索した結果,673件の記事が見つかりました。

安産稲荷神社(福渡町)

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 稲荷信仰はわが国の庶民信仰の中心であり、安産稲荷神社の形態は町内神である。創建は森家が美作に入った約70年後のこと。
 昭和18年頃までハスの葉を使った「安産湯」という家伝薬が前原家で売られていた。この前原家の東側に安産稲荷があり、「安産」と係わりがあるのではと考えられる。
 以前は戸川町の突き当たりの場所にあったようだが、江戸時代から残っている竹波(竹並)家の地所に移転したと伝えられている。時期は明らかではない。現在も安産信仰は続いており参拝者は多い。
祭神:宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)創建:延宝5年頃(1677) 祭礼:夏祭7/28 秋祭10/28 初午祭 旧初午の日(文:津山城下町まちなかお社巡りより)(2015年12月7日撮影)

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津山お城まつり体験企画で苔玉作り体験

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2015年11月14日・15日に津山市観光協会主催の津山お城まつり体験企画が津山城(鶴山公園)鶴山館の中でありました。その中の庭師が教える苔玉作り体験に行って来ました。当日はあいにくの雨で人出はぱらぱらでしたが、自分の手で苔玉を作ってみたいと言う人が集い教えを請いました。

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2015年11月の衆楽園です。

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 今年は暖冬の為か紅葉もさほど進んでいませんでしたが、それでも大勢の観光客の皆様がお出でになって衆楽園の紅葉を楽しんでおられました。11月に入ると曇りや雨の日が多くなり、少し残念です。池の水どり達も岩の上で深まりゆく秋の一日を楽しんでいました。(2015年11月15日撮影)

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2015年 津山城東むかし町祭り

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2015年11月1日(日)城東伝統的建造物群保存地区に於いて第26回出雲街道津山城東むかし町祭りがありました。この日は朝から曇り模様でしたが城東地区の歩行者天国は大勢の人で賑わっていましたよ。また、街道や芝居小屋ではいろんなイベントが催され、侍や町人に扮した人たちが道行人々を楽しませていました。それに各町内会の屋台が出て賑やかでグルメな一日となりました。

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矢筈城の概要(草苅衡継の矢筈城築城)

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矢筈城の概要(草苅衡継の矢筈城築城)(2011年~2015年10月31日取材)
 矢筈城(高山城)は、津山市加茂町山下から知和にまたがる標高756メートルの矢筈山に、美作国と因幡国に勢力を有した国人領主の草苅衡継が、天文元年(1532)から翌2年(1533)にかけて築いた山城で、東西1,600メートル・南北500メートルの壮大な規模を誇る岡山県内で最大の中世山城です。

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津山洋学資料館冬季企画展 津山藩の絵師 鍬形家と洋学者

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津山藩の絵師 鍬形家と洋学者
森島中良、宇田川玄真、箕作阮甫、箕作秋坪、宇田川興斎
~鍬形蕙斎、赤子をめぐる洋学者たちの諸相~
会期:10月17日(土)~平成28年2月7日(日)
◆「江戸一目図」で名高い鍬形蕙斎(1764~1824)は、はじめ北尾政美の名で浮世絵師として人気を博し、1794(寛政6)年に31歳で津山藩の絵師として召し抱えられました。惠斎の画業への評価とともに特筆すべきなのが、文人や学者たちとの交流で、宇田川玄真や森島中良ら、洋学者たちとも交流した記録があります。
 さらに蕙斎の跡を継いだ赤子(1800~1855)は、1854(嘉永7)年のペリー再来に際し、藩命で洋学者の箕作秋坪、宇田川興斎とともに浦賀に偵察に赴きました。各地に伝来する黒船を描いた絵巻には、赤子が描いたものや、それらを写したものがあり、黒船をめぐる学者たちのネットワークが垣間見えてくるのです。
 本展では、津山藩の絵師を務めた鍬形家3代のうち、初代蕙斎と2代赤子について、洋学者たちとの交流という側面からご紹介します。(文:津山洋学資料館HPより

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神実山 慈恩寺(大字桑下)旧久米町

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 当慈恩寺の所在する桑下村は延享4(1747)年、相州小田原藩大久保氏の領有となり、文化10(1813)年までその領有が続くのであるが、その間大久保氏の祈願所となり、大久保氏歴代の位牌が今もまつられている。
 又、某家保存の「美作庄久米北条郡」神実山慈恩寺由緒 の抜き書き によると、此の寺には 石頭山親道寺の前身があり、僧親道が住職として不動明王をまつっていた。此の石頭山親道寺を貞観2(860)年に慈覚大師が神實山慈恩寺として開基したものと解釈出来る一節がある。それから、天正4(1576)年江原兵庫助、同又四郎が本堂を再建した事情について次の様に書かれている。

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風月軒

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 衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が 藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に 「衆楽園」として命名されました。
 衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。

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天台宗 長寿山 石山寺のつつじ

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 森忠政が津山城の築城に際し、石垣に使用する石材の切り出しをこの地にて行いましたが、事故などが少なくありませんでした。そのため、家臣に命じて摩利支天を勧進し、お祭りしました。それ以来、庶民の祈願所として崇敬され、石山摩利支天として今日に至っています。
  この間、元真嶋郡(現・落合町)にあった極教寺を津山市山方の古観音寺に再興し極教寺とした寺と、明治43年に旭町の南光寺と石山摩利支天堂を合併し、大 谷の現在地に極教寺を移転しました。しかし近くに極楽寺という寺があり混同されることもあったため、昭和12年に寺名を今日の「石山寺」と改称しました。(2009年の取材はこちら)(2009年の紅葉2010年の桜)2015年4月12日取材

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