矢筈城の概要(草苅衡継の矢筈城築城)

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矢筈城の概要(草苅衡継の矢筈城築城)(2011年~2015年10月31日取材)
 矢筈城(高山城)は、津山市加茂町山下から知和にまたがる標高756メートルの矢筈山に、美作国と因幡国に勢力を有した国人領主の草苅衡継が、天文元年(1532)から翌2年(1533)にかけて築いた山城で、東西1,600メートル・南北500メートルの壮大な規模を誇る岡山県内で最大の中世山城です。

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矢筈城の城郭構成
 矢筈城は、標高756メートルという全国でも指折りの高地にある山城で、山頂と山麓の標高差、いわゆる比高も426メートルと非常に険しい要害の地に築かれています。
 城郭の構成としては、山頂に「本丸」を置き、その北方に続く屋根上に「土蔵郭」「馬場」等の曲輪を、また西方に続く尾根上には「二の丸」「三の丸」「石垣段」「腰郭」「成興寺丸」をはじめとする数多くの
曲輪を配した典型的な連郭式の縄張りで、『東作志』によれば「矢筈山四十二段ありて、士屋敷多くありしと云う」と伝えられています。
 また、矢筈城の北西の山麓に位置する津山市加茂町知和の大ヶ原には「内構」と呼ばれる矢筈城主草苅氏の大規模な居館跡があり、矢筈山の山麓を北側から西側に向かって流れる加茂川の清流が天然の堀の役目を果たしていました。
 矢筈城は、本丸・二の丸・三の丸を中心とする東廓群(古城)と、格式高い山上の御殿等を中心とする西廓群(新城)から構成される「一城別郭の構え」を持つ城で、当時における最新の築城技術である石垣が数多く用いられるとともに、狼煙場等の貴重な遺構も良く残っています。

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2011年5月8日


矢筈城と草苅氏 
 矢筈城主の草苅氏の出自については、用明天皇後裔説など諸説ありますが『萩藩閥閲録』や『東作誌』等によると、草苅氏の本姓は藤原氏で藤原鎌足から発して藤原秀郷の後、九代を経て氏家基近の時、寛元年間(1243~1247)に陸奥国斯波郡草苅郷(現在の岩手県紫波郡紫波町草刈付近)の地頭職となって、はじめて草苅と称しました。

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 その後、第十一代の衡継の時、天文元年(1532)から翌2年にかけて矢筈城を築城し、それまでの居城であった因幡国淀山城(鳥取県智頭町)から移りました。
 そして、天正12年(1584)に第三代城主の草苅重継が退城するまで、52年間にわたって草苅氏三代(初代城主・草苅衡継、第二代城主・草苅景継、第三代城主・草苅重継)の居城として使われました。(2015年10月31日取材)

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草苅重継の矢筈城退城
 「作州半国主」あるいは「美作の押さえ」と呼ばれ、その所領は二万石とも三万石ともいわれた草苅重継は、現在の岡山県北部 や鳥取県南部を勢力下に置き、戦国大名の毛利氏に属したため、備前の宇喜田直家や秀家、そして織田方の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)等の軍勢からたびたび攻撃 を受けました。
 しかし、草苅重継はその都度撃退し、毛利輝元や吉川元春からの要請によって天正12年(1584)に退城するまで、矢筈城を死守しました。矢筈城は、秀吉の軍勢のン猛攻を築城以来一度も落城することの無かった難攻不落の堅城として、また一度も落城しなかった毛利方の最前線の城として知られています。

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阿波からみた矢筈城址

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(文と地図:矢筈城跡保存会発行「戦国の歴史ロマン矢筈」より抜粋

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