田邊城跡

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▲2010.4月29日

田邊城(年末砦)
 田邊城は津山市中北上と宮部下の境界線上の、標高231米の山上、600米にわたって砦は構築されている。
この城の縄張りは、縄張図でわかるように馬場曲輪をふくむ19ヶ所の曲輪から成立ってている。主郭は東西が22米、南北17米の長方形で周囲を土塁で囲んでいる。
主郭の東側に曲輪があり、その曲輪の東側に二筋の堀切が掘られ主郭の備えが堅固となっている。二の郭は三ヶ所の曲輪から成り、中心になる曲輪が東西43米、南北が18米あり、両側に小曲輪を一段ずつ持っている。三の郭には4段の曲輪があり、中心になる曲輪が18米の正方形を成し、西側に三段の小曲輪が続き、四の郭えと通じている。四の郭は中心になる曲輪が東西24米、南北14米の長方形をなし、北西の端に大きな井戸を掘っている。井戸の直径は7米もあり、深さは長い年月、土・木の葉で埋まって不明である。都合5カ所の郭からこの城は成っており、それどれの曲輪に3米から5米の切岸を備え、切岸の下に犬走りが取巻き、互いに連絡がとれるようになっている。
その他、掘切り.のある箇所から南側と北側に堅堀が下がっている。東の端に東西200米、南北最大幅75米の馬場と呼ばれている平地がある。以上が田邊城の概要である。(情報提供:田邊九吾)

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▲駐車場から田邊城跡に行く途中の家が田邊さんが子供の頃住んでいたお宅だそうです。茶室が見えます。

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▲とってもきつい坂道です。登りきるとさくらの花が出迎えてくれ、すがすがしい空気も印象的でした。

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▲馬場跡も広かったです。また、さくらの花、やまぶきの花、色とりどりの花が植わっています。

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▲向こうの山の竹林。城跡図。お便所も完備です。

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本丸のあったところ。

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▲岩屋城展望。  井戸の跡など。

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田邊城(年末砦)
嘉吉元年(1441)美作国守護職に任ぜられた山名教清は久米の中北上に築城した。岩屋城初代の城主は山名教清で、2代目城主は教清の子山名政清である。この頃将軍足利義政の後嗣の事が引金となって応仁の乱が起き、政清は軍勢3000人を率いて上洛し、山名持豊(宗金)の軍に加わった。
この機全をとらえ赤松方の大河原・中村・小瀬の武将をもって岩屋城を攻め落し、文明五年(1477)美作の守護職は赤松氏となり、三代目の岩屋城主を大河原治久とした。
永正15年(1518)赤松政村の時、浦上村宗は主家である政村に背き、岩屋城を奪い、中村大和守則久をもって四代目の城主とした。
五代目の城主は則久の子中村則治を置いたが、天文13年(1544)出雲の尼子径久の侵攻を受け尼子氏の軍門に降った。城主はそのまま中村則冶を置いたが、副将として尼子方の将芦田備後守秀家を置いた。六代目の城主には尼子氏の属将芦田秀家とした。
七代目の城主には宇喜多氏の将、浜口淡路守家職とした。
八代目の城主は毛利氏の将、中村大和守頼宗が毛利方の中から32人の選士を以って夜襲をかけ大勝し城主となった。
九代目の城主は宇喜多氏の将、長船越中守で、岩屋城最後の城主である。
この間の田邊家の存在を案ずるに、田邊城は岩屋城の属城としての役割を果たして来た。作陽誌にここに砦のあった事を伝えている。
田邊家は赤松氏の系譜で浦上氏に属していたが、強大な力を持った尼子氏には抗しがたく、美作の13将が揃い降伏した時、同時に降った。田邊城の北側の麓に青木の段という平地があり青木神社を祀っているが、田邊家の守り神と伝えている。この社の20米程南に田邊様と言われる祠が祀られ、これが田邊家の先祖田邊出雲守権右衛門実成の自栽の地である。
この青木の段は東・北・西と田邊城を背にして半円状の高台の平地で、この平地から10数米下った宮部川まで切岸と思はれる急傾斜があり、西から東え流れる宮部川を堀と考えるならば、田邊城主が平素生活していた根小屋(館)であったと考えられる。久米町史に、土地の人は岩屋城の見張所の跡と伝えているが、此の遺構のある丘陵の東南は出雲街道の道筋であり、西北は岩屋城の裏で宮部上・宮部下の人里の咽喉部に当り、この砦はこの両方を見張るには大変好都の場である。と記されている。
この砦が見張りの役目を持ち、果たしていたと考えられるが、この田邊城は備えの規模、城郭の大きさ等を考えると、城としての機能を充分備えており、岩屋城の衛星城である可能性が高い。
天正9年(1579)6月25日、毛利方の将中村頼宗等は大手より、選士32人は主郭の北壁をよじ登って城内に入り、表と裏が相呼応し落城したその前年の秋、田邊家伝記によると。
田邊城は毛利方の将中村頼宗の軍勢に攻められ、激戦の末落城し、青木の段に於いて城主田邊出雲守権右衛門実成は自栽し果てた。
この戦いで生き残った家老は、僅かに残った兵を野辺(大字宮部下にある丘陵)に集め、最後の抵抗を試みたが、ついに全員が討死をしたと伝えられ現在の家臣団の墓(五輪塔)は野辺にあり、田邊家の末裔によって手厚く祀られている。
自我して果てた田邊出雲守実成は、青木ヶ段に田邊様と称し、田邊株の三軒によって祀られている。
田邊出雲守実成に子が二人いたが、兄は田邊姓を名乗り、弟は父の名前の実成を姓として名乗り、この地に土着し現在に至る。なお田邊家は銀二萬貫の知行を戴き、家臣は数百名であったと語り伝えられている。
城跡に田邊城跡の碑を建立し、桜等の植樹をなし祖先の遺徳を顕彰す。建立者 田邊九吾
実地調査 美作の中世城郭研究家 山形省吾


 

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