中山神社の石灯籠
瑞垣の本殿前庭にある高さ3mに近い一対の石燈籠は六角形で、手法極めて優秀な逸品である。竿に『壱対石檠 体堅且精 因為神器 徳光縦横 寛文戊申九月吉日 従四位 下美作守 源忠継』と刻まれている。
忠継は若くして死んだ長継の世子。
これと類似の燈籠が徳守神社と田邑千年寺にある。
(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日撮影)
瑞垣の本殿前庭にある高さ3mに近い一対の石燈籠は六角形で、手法極めて優秀な逸品である。竿に『壱対石檠 体堅且精 因為神器 徳光縦横 寛文戊申九月吉日 従四位 下美作守 源忠継』と刻まれている。
忠継は若くして死んだ長継の世子。
これと類似の燈籠が徳守神社と田邑千年寺にある。
(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日撮影)
2017年4月1日・2日に津山市二宮にある高野神社で「春まつり」がありました。
4月1日には宵宮祭(16:00~16:40)、鎮守の森ライトアップ(日没後~21:00)が本殿・境内・参道・宇那堤森・立石邸でありました。また、4月2日には春まつり祭典(10:00~10:30)、国指定重要文化財の木造獅子2対(県下最古とされる平安時代の木造獅子)の特別拝観(10:45~16:00午後1:00からは一般の方も拝観)がありました。また、2日間限りの修繕特別御朱印がいただけました。(文:高野神社パンフレットより)(2017年4月2日撮影)2009年取材の様子はこちら←
津山市種にある中部第七十二番霊場(2016年11月13日取材)
岡山県道449号押淵皿線県沿いに、ひっそり佇んでいるお社の横には燈籠があり、道行く人を見守ってくださっています。また、綺麗な祠を見ると地域の人達が大切にお祀りされている様子が解ります。
城主森公は慶長8年(1603)美濃の関鍛冶から刀匠景兼長右衛門を統領とする一門の鍛冶を同伴して入封し、城下のほぼ中央に鍛治町をつくった。
宗道若宮とも称し、当初洞は津山城の南庭に梨樹が一株あるだけであった。宏、政が築山をするため樹下まてホ地を掘ったところ、一匹の青蛇がとくれろを巻いて動ずる様子もなかった。
忠政は即日梨樹を山北村八子の八幡宮の境内に移して把り、その後、宝麿9年(1759)鶴山八幡より此地に遷された。もと人家の裏に把つであったのを、明和6年(1769)社地を広げ参道を設け神門及び鳥居を建立し、鍛治町並びに住民の鎮守とした。又、古代鍛冶部の租神である天目一箇神も祭神としている。
当神社には斉藤家四代平井茂一郎藤原兼景が、宝暦11年(1761)に奉納した鎗(やり)が今も大切に保存されている。
所在:津山市鍛治町 祭神:素戔鳴尊(すさのうのみこと〉、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
創建:慶長年間(1596~1615)以降 祭礼:夏祭7/20、秋祭10/最終日曜
(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年11月30日撮影)
2016年11月12日(土) 津山城跡(鶴山公園) 13:00 ~14:00 旅するアート2016 オープニングイベントに参加してきました。当日はお天気も良く、帽子が必要なくらいの日差しの中での創作落語でした。話が進むにつれて、やたらと津山の芸術文化に詳しい方だと思ったら、それもそのはず、高橋 直裕氏は元世田谷美術館学芸員でした。
鍬形蕙斎の「江戸一目図」を前に話に興ずる長屋のご隠居と八五郎。描かれた風景や人物を流暢に講釈するご隠居に八五郎は舌を巻くが・・・。津山の絵師、飯塚竹斎。無名だった竹斎が晴れて津山城の襖絵を描くに至ったその訳とは・・・。津山ゆかりの絵師二人の物語。等々とても興味深く聞かせて頂きました。
久米町中北上の国道181号線の北側に北家があり北家の家の前にある。よく手入れされ樹形は整っている。 本樹はスイリュウヒバと伝われているようであるが、サワラの園芸品種でよく庭園に植えられるヒヨクヒバと思われる。小枝や細枝は長く伸び糸のように垂れ下がる。
県下でも大きいものの一つである。(2016年8月11日.14日.15日撮影)(文:平成5年 津山地方振興局発行 津山の名木百選より抜粋)
2016年7月23日(土)14:00~20:30、恒例の「徳守神社夏越祭・わぬけ祭」に合わせ、徳守神社・近隣町内会等と協力し、懐かしい木枠の行灯等を沿道に飾る祭り徳守万燈籠(主催:つやま城西ほりおこし隊・城西まちづくり協議会)があり行って参りました。今年は、「徳守のお祭りが進化します。」と題して、竹燈籠 約1500基・紙行灯 約600基を配して万燈籠(監修:山形楽、テーマ:平安境内から近隣町内)が華麗に境内を彩りました。また、作州民芸館や徳守神社境内、徳守会館内の各会場でイベントが行われ大勢の方で賑わっていました。(2014年の夏越祭)
「美作国万灯会(みまさかのくにまんとうえ)ー333年ぶりに甦るー 翔鶴・悠久・宴・深山 監修 山形楽」が、2016年7月2日(土)午後6時~9時(※雨天順延)が臨済宗妙心寺派 東海山本源寺に於いて執り行われました。
「万灯会」とは、夕方から夜にかけて、数多くの灯明をともして、仏様や御先祖様を祀り、御供養する仏教法要の一つです。今からおよそ1270年前の奈良時代744年(天平16年)に、東大寺の前身の金鐘寺(こんしゅじ)というお寺で、万灯を灯したのが、日本に於ける万灯会の始まりとされています。
津山に於いては、本源寺が森忠政公によって現在の場所に建立された年の慶長12(1607)年、5月3日に忠政公の奥方、お岩の方が亡くなり、本源寺にお祀りされました。
その年のお岩の方の初盆、旧暦の7月14日・15日に、桶屋町・吹屋町から本源寺のお岩の方の墓所まで、万灯が灯されました。そしてその翌年には、吉井川の川向うから墓所まで、津山の町中に灯明が灯されました。現代のように電気のない時代ですから、さぞ美しかった事と思います。
藤和田神社(領家)
祭神は、伊弉諾命・菅原神・天穂日命である。
此の社は正暦4(993)年8月、近江國犬上郡多賀村に鎮座の多賀神社の 分霊を勧請したものであるので祭神は多賀神社と同一の神であるはずであって「かれ、其の伊邪那岐大神は、淡海の多賀になもまします。」(古事記上巻)と あって多賀神社の祭神は伊邪那岐大神であるので、藤和田神社の祭神は当然伊邪那岐命であることは申すまでもないことである。
河原大イチョウ(2015年10月19日・11月11日)
本樹は樹高30M、元から二幹に分岐し、すぐまた六枝に分岐している。根元の周囲9.1M、目通り周囲9.7枝張り南北22M、東西17.4Mで推定樹齢600年、県下屈指の巨木である。本樹は雄で銀杏はならない。樹形は二枝が合着したもの、或いは最初の幹が失われて、その株から新枝が再生して今日の姿に成長したものと考えられ、イチョウ本来の姿とは梢趣を異にしている。
昔から銘木として知られ、元禄2年(1689)「川原村名物」の記事にも載っている。傍らに燈籠がたっていて嘉永元年(1848)在銘であるところを見ると、この地は天神様の境内地で昔から神木として崇められていたものであろう。
ここに集落環境整備事業によりイチョウの木の周辺を地区のシンボルとして又、憩いの広場として整備し、その地にある歴史を大切にした景観づくりを図るものである。
・昭和47年6月15日 町指定天然記念物
・平成4年3月 集落環境整備事業により銀杏広場として整備
平成4年 梢に春風吹く頃
勝央町 河原地区 (文:説明板より)