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八幡宮(宮尾)旧久米町
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鶴亀神社(津山市久米)
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藤和田神社(領家)
祭神は、伊弉諾命・菅原神・天穂日命である。
此の社は正暦4(993)年8月、近江國犬上郡多賀村に鎮座の多賀神社の 分霊を勧請したものであるので祭神は多賀神社と同一の神であるはずであって「かれ、其の伊邪那岐大神は、淡海の多賀になもまします。」(古事記上巻)と あって多賀神社の祭神は伊邪那岐大神であるので、藤和田神社の祭神は当然伊邪那岐命であることは申すまでもないことである。
多賀神社は元来延命長寿の神で「お伊勢詣らばお多賀へ詣れ、お伊勢お多賀の子でござる」と詠まれている。古事記によると伊邪諾神が夫人伊那冊神に先だた れて後、筑紫の日向の阿波岐原で禊祓をされた時に左の目を洗う時に生まれた神がお伊勢様即ち天照大神なのであるから「お伊勢お多賀の子でござる」わけであ る。又「お伊勢へ七度熊野へ三度お多賀様へは月詣り」といった繁昌振りの多賀様即ち伊邪諾命の分霊が此の藤和田神社に祀られているのである。初は藤和田宮 王子大権現と称え奉り、後再建すること六回、元禄元年(1688)年正月改築後、文政四(1821)年正月二十九日火災に遭い、棟札も古記録も全部焼失し た。明治二十八年現在の社殿を造営して漸く旧に復した。
宝物としては大字中北上にあった岩屋城主中村大和守の奉納した径一尺二寸(36cm強)、重さ一貫五百匁(5.6㎏強)の大神鏡が今も保存されているとのことである。
祭日は、歳旦祭1月1日、春祭4月15日、夏越祭7月15日、虫追い7月24日、大祭(秋祭り)10月15日、新穀感謝祭11月23日。その他6月田上りの頃、車戸神社のおこもり。
明治15年9月25日村社に列せられ、同40年5月22日幣帛料供進社となったけれども太平洋戦争敗戦後はこの社格も待遇もなくなった。
大正2年2月には天神社と合祀と、二つ塚に鎮座の車戸神社を当社の境内に移して境内神社とした。
(文:久米町史より抜粋)2016年1月6日取材
本殿
本殿
神輿蔵 燈籠
車戸神社鳥居 真中が車戸神社です。
つがいの牛の片方が宮部の車戸神社にあるそうです。 なぜか牛が沢山奉納してあります。
末社神 荒神様
一番左の領家当夜荒神 車戸神社の鳥居
昔は各家でお宮を持ち祀っていましたが、現在はそのお宮を全部まとめたのがこの荒神様だそうです。年に一度は当屋で荒神祭りをしたり、夜中に次の家に御幣(おんべ幣束ともいう。白色または金銀,五色の紙を幣串にはさんだもの)を渡していたそうです。
正確には「領家当屋荒神」と言うべきであろう。今の大字領家に残る荒神様の祭礼で、株の家数は昔から一定の二十一軒で欠けた家が出来たら他から補っていつも二十一軒で行う様になっていて、今も変わりはない。此の二十一軒は上・中・下の三組に分れ祭礼は旧暦の十月十八日、「当開き」と「当受け」の儀式が行われる。「当受け」のある組の七軒は協力して祭典にあたる。ご神体は御幣の束で毎年神官が一本を作り、之を御神体に加えて受け当屋に渡し之を受けた当屋はそれから一ヶ年自宅で祭るのである。此の御神体は以前は家の納戸に祭っていたが、家の中に穢れがあってはいけないから、というので今では屋外の庭かどこか適当のところに高床の御厨子を作り、これにお祭りするようになった。受当屋へ申し送られるものとしては、大小二個の太鼓・「御神燈」と墨書きされた高張提灯二張(赤の紋章、黒の紋章各々一張)・それに盃四個、其の他文章である。
神田は昔は四反位あって、その収穫で祭典をしたものだそうだが非常に盛大な祭礼を行ない、株外の村民にもだれかれの区別なく酒肴を振舞ったので莫大の経費を使い、家がつぶれる程の負担であったので、破産してやむを得ず当屋株を他へ売るものも出来たということである。今では中国自動車道の用地其の他で神田の面積もぐんとへったし、祭典もうんと簡素になり、神田売却金の利息で祭典が行われている。ではいつの頃から此の神様が祭られたものか、御神体の御幣の数を数えればおよその年代はわかるわけではあるが何分にも御神体のことであるので数える訳にもゆかず、四百本くらいあるのではないか、と言った人があるが、それもさだかではない。(文:久米町史下巻より抜粋)