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取材記事内を検索ワード「門」で検索した結果,752件の記事が見つかりました。

行啓道路(津山市山下)

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 津山警察署前約半丁許の處より、東方鶴山城址櫻の馬場に直通坂路、長百四拾三間五分・巾三間の改修道路は大正15年5月23日津山城址に行啓あらさらるる 東宮殿下奉迎のため津山町が熱誠を捧げ工費約五千圓を投じ(同年4月10日起工・同4月30日竣工)修築したるものにして、行啓の當日、生徒児童並びに一般拝観者は該道の両側及び其の付近に於いて謹んで拝観の光栄に浴することを得たり。故に人呼んでこれを行啓道路云ふ實に宜なりといふべし。因に道路改修以前は、奮城の周濠を田地となせし水田にて奮郡役所の北方は一段高き土堤の上に数軒駢列せる住宅ありしを撤去せしめ其の地を掘り下げ、以って水田を埋め田町より直線の新道を開設せしものなり。

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白加美神社と2015年の納涼会

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2015年7月19日(日)≪前回の取材:2009年2009年秋紅葉2010年元旦2010年2011年夏2011年秋まつり2012年春2014年桜2014年夏2015年冬・ ≫


 小田中は湖水面が広がっていたと考えられる。材料として、苫南郡田中郷小田中村(現、津山市小田中)に所在の「白神社」(通称、しらかみさま)が ある。白神社は、天照天神、正哉吾勝尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊、鵜草葺不合尊の地神五代を祭神として祀ると伝へられるが、この白神社の末社である「月輪 神社」の存在は無視することの出来ない重要なものである。

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瑠璃山 本光禅寺

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 長徳(995)のころより薬師如来を安置して、神徳寺と称す。
寛文(1661)のはじめ津山藩二代目森 長継黄檗の木庵禅師の高弟鉄堂に帰依し本光寺と改名
  東一宮中村七十五石六升六合、西一宮湯谷村七十四石九斗二升四合、計百五十石を禄高として再興、森家菩提寺となる。
元禄十年、森家改易と共に一時寺領退転となるも、森家の族、播州乃井野の城主、森對馬守長俊、同備中新見の城主、関備前守長治、同赤穂加里屋の城主、森和泉守長直等の諸侯より茶湯料として各高十石宛寄附あり。

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寺城山 密厳寺(大字中北下)旧久米町

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 寺院の縁起と開山
 真言の教は、古く平安期の昔より美作の各地域に布教され、多くの人たちに心のよりどころとして信仰されていた。
 伝によると元弘の頃(1331)、大井庄坪井の地には真言の教が浸透し、衆徒法悦、そして寺門隆盛となり、寺城の地に寺坊十二ヶ寺も存在していたと言われている。
 その隆盛の姿は現在総門の跡と考えられる仁王堂、梅ヶ坪御堂、また寺向、寺奥等の地名が残り往時の寺院仏閣の壮大さが偲ばれるのである。
 中世における度々の戦乱により、寺院仏閣は兵火を被り衰退したが、真言の教は人々の深い信仰により絶えることなく続いていた。

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坪井山 称念寺(大字坪井下)旧久米町

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 本寺は九品山来迎寺となっているけれ共、現在は京都の知恩院の直末である。
 元、此の寺は此の地の大庄屋福本小左衛門が自分の所有地のうち、現在称念寺のある位置に独力で小庵を建立した。時は慶長7(1602)年で、坪称庵と称した。其の後荒廃し寛永3(1626)年、福本小左衛門は独力でこの坪称庵を再建した。それから少時たった寛永9(1633)年10月22日、石州浜田生まれの道誉雲西という道心者が此の坪称庵に入って住職的な役割りをすることとなった。道誉雲西は正式な僧侶ではなく、俗人であり乍ら仏道修行に熱中した人であるが、これをもって開山と見ることもできる。

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楞厳山 慈恩寺の巨大な十一面観世音菩薩像(津山市林田)

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楞厳山 慈恩寺:観音堂内、本体約4.6メートルの巨大な十一面観世音菩薩像は、樹齢約2000年の「木曽檜」の一木彫りで造られている仏像です。四方を囲う四天 王像も約3メートルもあり、樹齢1800年の「姫小松」の一木彫り。制作年月日は大正初期から約6年間かけて作成されたもの。(2015年6月13日・6月22日取材)前回の取材はこちらをご覧ください。


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津山城(鶴山公園)の紫陽花

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2015年6月26日の津山城(鶴山公園)の紫陽花(あじさい)の様子です。この日はどしゃ降りの雨が降っていましたが、、それでもアジサイにとっては嬉しい雨。アジサイの生き生きした姿を撮ろうと行って来ましたが、なんと、そこには海外勤務の一家が来られていて「子どもの夏休みなので来てみたが、石垣と備中櫓が良かった。10歳の子どもでも、いま政治に関しての勉強していて日本の子どもとは政治に対する姿勢がずいぶん違う。」と話して下さいました。

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西山宗因の句碑(小田中新屋敷)

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聖徳寺正門を入ってすぐ左側(新屋敷)
後年俳聖芭蕉が「宗因は俳諧の道の中興なり」とたたえた談林派の鼻祖宗因は承応2年(1653)津山を訪れ旧友快映坊のいる聖徳寺に宿して俳諧史の貴重な文献「津山紀行」を残した。
句は寺で中秋の名月を迎えほのかな旅愁を漂わせている
 月見れば こよひなりけり 旅の空 西山宗因 書は彫無季氏(2015年5月9日)

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新高倉稲荷神社(西今町)

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この神社は嘉永元年初春に西今町の人山手屋江原市右衛門が高倉稲荷大明神として建立し祭祀したが、故あって嘉永3年に徳守神社の境内末社として遷祀されました。しかし翌年再び此の地に祠を建て新高倉稲荷神社と号し西今町の守護神として150年の長きにわたり祭祀されています。 例祭...夏祭り 7月28日 秋祭り 10月28日

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義信神社(安岡町)

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この近辺で義人を祀る神社というのは珍しいと思われる。安岡町の義信神社は渡辺藤左衛門義信という義人が祀られている。もと安岡町と茅町は津山の城下町になっていなくて城下町に比して重税に苦しんでいたと云う。元禄の頃安岡町に渡辺藤左衛門義信という浪人がいて町民の為に藩に直訴した処、願いが聞き届けられて城下編入が実現した。しかし、直訴は法度であり、義信は処刑されてしまう。町民は藤左衛門をあわれみ、その義挙を徳とし祠を建て神と崇めた。それが義信神社である。今も安岡町の人々はこの宮をあつく敬い、夏と秋にねんごろに祭祀を行っている。(文:つやま城西まるごとまち自慢より)

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