久原洪哉生誕190周年記念 津山藩医久原家の幕末・明治

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津山藩医・久原家
 久原家に残された「先祖書」によると、久原家の始祖は森家の家臣熊野角右衛門であると伝えられています。角右衛門はその後、久原宗清良政と名を改めました。
 医家久原家の初代は宗清の跡を継いだ甫雲良賢です。良賢は1677(延宝5)年に幕府の医官であった西玄甫から「阿蘭陀流外科医術免許状」を授けられ、その後1708(宝永5)年に津山藩に藩医として、30人扶持で召抱えられ、椿高下に屋敷を与えられました。良賢以後、久原家は9代洪哉まで代々津山藩医を勤めることになります。

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久原洪哉 1825(文政8)年~1896(明治29)年
 洪哉は西北条郡香々美郷井村(現在の鏡野町百谷)の医師難波周造の長男として生まれ、後に、久原宗甫(8代玄順経久)の養子となって、久原家を継ぎました。養子となる前に京都で石元翠に西洋医学を、広瀬元恭に蘭学を学び、養子となった後は大阪の華岡南洋のもとで華岡流外科を学んでいます。幕末に種痘が日本に伝来すると、津山における種痘普及に中心となって尽力しました。また、1870(明治3)年には英国人医師ウィリスの助言を得て、藩主夫人の乳がん摘出手術を成功させました。

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写真右:乳がんの摘出手術を勧めるウィリス書簡1869年

 英国人医師ウィリスが、藩主夫人の乳がんについて切除を勧めている書簡。ウィリスは幕末に来日し、東京医学校の教師を務めていました。この意見に従い、明治3(1870)年に宗甫洪哉が宇田川興斎とともに手術を成功させました。

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津山城下絵図 文政3(1820)年ころか(津山郷土博物館所蔵)

 題箋には「文政三年」を基準とする経年が記されていることから、そのころのものと考えられます。津山藩に召し抱えられた当時、久原家は椿高下に屋敷を与えられましたが、このころには田町にあったことがわかります。

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久原家所用陣笠と兜

 陣笠は、元来、文字通りに「戦陣で着用する」笠ですが、江戸時代には火事の際の被り物としても使用されていました。久原家には、火事場装束も残されており、いざという時の備えとしていたのでしょうか。(写真:久原家蔵・津山洋学資料館寄託)(文:津山洋学資料館)



久原躬弦 1855(安政2)年~1919(大正8)年
 躬弦は洪哉の長男として津山で生まれました。幼少から蘭学の手ほどきを受け、14 歳で箕作麟祥の神戸洋学校に入学、ついで東京に出て、箕作秋坪の三叉学舎に入門します。翌1880(明治3)年津山藩の貢進生として大学南校に入学。在学 中に大学南校は開成学校、東京大学と称され、躬弦は東京大学化学科を第1期生として卒業しました。1879(明治12)年にはアメリカのジョンズ・ホプキ ンズ大学に留学し、博士号を取得。東大教授、京都帝大教授、京都帝大総長を歴任し、日本の理論有機化学の草分け的存在となりました。
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若いころの躬弦(みつる)と開成学校講義室発会演説の内容をまとめた印刷物

1876(明治9)年頃、躬弦21歳ころの写真原案。このとき、躬弦は開成学校に在学しており、卒業の前年に当たります。

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明治10年に授けられた東京大学理学部化学科卒業証書(第一回生)と理学博士 学位記

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勲一等瑞宝章・勲記

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科学者の休暇 久原宗甫宛書簡1881(明治14)年8月12日と躬弦所用シルクハット

 アメリカ留学中、避暑のため滞在していたケープピンセントから出された書簡。躬弦はジョンズ・ホプキンス大学の夏季休暇中に金石学を学び、一段落ついたため避暑に訪れていました。宿舎の窓から見たオンタリオ湖のスケッチが添えられています。

(写真:久原家蔵・津山洋学資料館寄託)(文:津山洋学資料館)



久原茂良 1858(安政5)年~1927(昭和2)年

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  茂良は洪哉の次男として津山で生まれました。最初「木藾」と称しますが、1884(明治17)年に茂良と改めました。同年、東京大学医学部を卒業し、順天 堂病院等で臨床研究を重ねました。1886(明治19)年に帰郷すると、津山二階町(現・津山市二階町)で医院を開業します。苫田郡医師会の初代会長に就 任したほか、1919(大正8)年津山町西寺町大円寺境内に、貧困者の無料診察施設「津山施療院」が開設されると、その医長に招かれて無料で奉仕するな ど、地域の医療の発展に貢献しました。

(写真:久原家蔵・津山洋学資料館寄託)(文:津山洋学資料館)



久原濤子 1906(明治39)年~1994(平成6)年

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 濤子は茂良の四女として津山二階町で生まれました。1924(大正13)年に津山高等女学校を卒業。1929(昭和4)年に上京し、彫刻家北村西望に弟子入りしました。昭和6年、帝国美術院美術展覧会(日展の前身)に女性として初入選して以降、多数の作品を制作し、第一線で活躍します。終戦後は、日展の無鑑査出品者(審査を経ずに出品すること)となり、また、師である西望を手伝って「長崎平和記念像」の制作に参加しました。津山市内には「箕作阮甫先生」胸像をはじめとして数多くの作品を残しています。

(写真:久原家蔵・津山洋学資料館寄託)(文:津山洋学資料館)(2015年4月8日取材)