医療の発展に貢献した久原家(二階町)
久原茂良 1858(安政5)年~1927(昭和2)年
茂良は洪哉の次男として津山で生まれました。最初「木藾」と称しますが、 1884(明治17)年に茂良と改めました。同年、東京大学医学部を卒業し、順天堂病院等で臨床研究を重ねました。1886(明治19)年に帰郷すると、 津山二階町(現・津山市二階町)で医院を開業します。
苫田郡医師会の初代会長に就任したほか、1919(大正8)年津山町西寺町大円寺境内に、貧困者の無料診察施設「津山施療院」が開設されると、その医長に招かれて無料で奉仕するなど、地域の医療の発展に貢献しました。
久原茂良 1858(安政5)年~1927(昭和2)年が(現・津山市二階町)で医院を開業した所と祖先の久原茂良(資料提供:津山洋学資料館)
久原家庭とゆかりの人々(写真提供:保田扶佐子さん)
久原家庭とゆかりの人々(写真提供:保田扶佐子さん)
久原躬弦 1855(安政2)年~1919(大正8)年
躬弦は洪哉の長男として津山で生まれました。幼少から蘭学の手ほどきを受け、14歳で箕作麟祥の神戸洋学校に入学、ついで東京に出て、箕作秋坪の三叉学舎に入門します。翌1880(明治3)年津山藩の貢進生として大学南校に入学。在学中に大学南校は開成学校、東京大学と称され、躬弦は東京大学化学科を第1期生として卒業しました。1879(明治12)年にはアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学に留学し、博士号を取得。東大教授、京都帝大教授、京都帝大総長を歴任し、日本の理論有機化学の草分け的存在となりました。
久原濤子 1906(明治39)年~1994(平成6)年
濤子は茂良の四女として津山二階町で生まれました。1924(大正13)年に津山高等 女学校を卒業。1929(昭和4)年に上京し、彫刻家北村西望に弟子入りしました。昭和6年、帝国美術院美術展覧会(日展の前身)に女性として初入選して 以降、多数の作品を制作し、第一線で活躍します。終戦後は、日展の無鑑査出品者(審査を経ずに出品すること)となり、また、師である西望を手伝って「長崎 平和記念像」の制作に参加しました。津山市内には「箕作阮甫先生」胸像をはじめとして数多くの作品を残しています。(文:津山洋学資料館)
児童公園にある作品
2015年4月現在は門柱を残すのみとなっています。
久原茂良先生、久原躬弦先生の生誕の地の記念石柱
(2015年4月8日取材)