六十六部供養碑と塞の神(中北上)
 六十六部供養碑と塞の神(明谷・原)
 六十六部の供養碑は満願供養のものであり、「奉納大乗妙転六十六部供養塔」と刻まれている。塞の神は原と明谷の境にあり、旅人や地区の安全と無病息災を祈願する。天保3年(1832)建立。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
 六十六部供養碑と塞の神(明谷・原)
 六十六部の供養碑は満願供養のものであり、「奉納大乗妙転六十六部供養塔」と刻まれている。塞の神は原と明谷の境にあり、旅人や地区の安全と無病息災を祈願する。天保3年(1832)建立。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
 追分一里塚跡(矢谷入り口)
明治29年の国道改修により場所が異動している。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
2019年8月29日、イナバ化粧品店に立ち寄ってきました。店内ではママが古い写真を見ながら、みなさんと賑やかにお話をされている最中でした。なんでも古い写真の整理中とかで、昔の店内の様子やファンの皆さんとの思い出話をとても懐かしそうにお話してくださいました。今でも連絡をとったりしているファンのみなさんが沢山おられるようです。ママさん、いつまでもお元気でいてくださいね。
西尾与九郎屋敷跡(岩屋)
 天正9年(1581)6月、宇喜多氏の支配下にあった岩屋城を毛利氏は32人の決死隊をもって「落とし雪隠」より攻め落城させた。勝利に貢献した西尾与九郎は毛利より感状(表彰状)を受けた。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
森原神社(安清)
 明治41年に鶴坂神社に合祀されているが、現在も毎年甘酒祭などをしている。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
2019年8月8日立っているだけでくらくらするような炎天下、院庄にある作楽神社東側の発掘現場にお邪魔してきました。ここは住宅地になるそうで、その前に発掘調査がなされていました。現場で作業されているみなさんご苦労様でした。
2019年8月18日、美咲町の歴史を訪ねて回る際に、ふと見ると大きな建物に蔵がずらり。この建物は何だろうとお尋ねしてきました。(資)江原醤油醸造場(美咲町西川495)でした。御子息にお聞きしたら「江原醤油醸造場は、宝永4年(1707)12月16日の富士山が噴火した年の創業だと聞いています。だから築312年は経っています。」とのことでした。突然にお尋ねしたのですが、快諾頂き写真を撮らせていただきました。お聞きすれば、津山市内のお店にも配達に来られているのだそうです。
福山家 福山元太郎 久米北上郡里公文中村 浜田藩(鶴田藩)
大庄屋まで
 福山家の出自は明らかでない。享保2年(1717)高津神社の棟札に庄屋福山彦兵衛、天明5年(1785)中庄屋彦兵衛、寛政2年(1790)彦兵衛、文化4年(1807)中庄屋周蔵の名があり、中庄屋、庄屋を勤めていたことがわかる。天保7年(1836)久米北条郡17か村が石見国浜田藩の飛地になったとき、福山元太郎が和田北村の富田伊兵衛とともに大庄屋に任命された。
大庄屋として 
 第2次長州戦争で敗れ、城をすてた浜田藩は、慶応3年(1867)藩主が福山家に移り、鶴田藩と藩名を改めた。明治4年に桑下に西御殿ができるまで福山家は藩主の邸宅であった。
久米苫田八十八ヵ所霊場八十一番札所
 石灯籠、三輪の塔、地神様がある。阿弥陀如来安清の堂があったが、今はない。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
安藤家 安藤善右兵衛(挙母藩)久米北条郡坪井下村
大庄屋まで
 安藤氏は、周防の大内義隆の家臣であった。義隆が陶晴賢によって滅ばされた後、天正元年(1573)香々美庄、のち河本村(鏡野町)に移住し、寛文3年(1663)子孫の太郎兵衛が坪井村に帰農したという。家譜によると天明年間、善右兵衛の祖父勘兵衛が挙母藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
 善右兵衛(善一)は、天保8年(1837)挙母藩の事務総掛を務めた後、大庄屋職を勤めている。慶応2年(1866)改政一揆のとき、津山に向う百姓に食物を与え説得して帰村させた。兄の鹿左衛門は救済などに献金し武士にとりたてられている。
美作国挙母藩領
 元禄15年(1702)内藤領(安中のち挙母=豊田市)となった久米北条郡内の12か村5千石余が、明治4年(1871)まで、169年間にわたって内藤家の領地であった。これを統括する陣屋は坪井下村におかれた。