美作の大庄屋巡り「福山家 浜田藩(鶴田藩)」

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福山家 福山元太郎 久米北上郡里公文中村 浜田藩(鶴田藩)
大庄屋まで
 福山家の出自は明らかでない。享保2年(1717)高津神社の棟札に庄屋福山彦兵衛、天明5年(1785)中庄屋彦兵衛、寛政2年(1790)彦兵衛、文化4年(1807)中庄屋周蔵の名があり、中庄屋、庄屋を勤めていたことがわかる。天保7年(1836)久米北条郡17か村が石見国浜田藩の飛地になったとき、福山元太郎が和田北村の富田伊兵衛とともに大庄屋に任命された。
大庄屋として 
 第2次長州戦争で敗れ、城をすてた浜田藩は、慶応3年(1867)藩主が福山家に移り、鶴田藩と藩名を改めた。明治4年に桑下に西御殿ができるまで福山家は藩主の邸宅であった。

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所在地
 里公文中村は、倭文川北側の丘陵地にあり、桑上村から出雲往来の南方中へ出る大山道が村の東を通る。この道を横切って山背を越えて川湊中須賀へ出る道がある。かつては旭川の西川と吉井川の中須賀や津山を繋ぐ重要な道であった。里公文中村には、慶応2年から藩主や重臣、その家族が暮らし、明治4年までは藩の中心地であった。狼様と呼ばれる貴布祢神社は隣の桑上村にある。
(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)

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母屋・土蔵は修復を繰り返されているそうです。

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明治に浜田藩の殿が上京、福山家も上京する。
屋敷
 屋敷内に現存の母屋・土蔵「1780年~2019年現存(一時期、浜田藩の殿住まい)」
   (母屋・土蔵は修復を繰り返されているそうです。)
 離れ家二棟
    一棟、敷地内の上段にあったが明治時代取り壊し。(一時期、浜田藩の奥方の住まい)
    残りの一棟も取り壊し。
 母屋に隣接していた療養所(岩本家設立/総合科)1780年~1973年迄診療。
    1975年に病室取り壊す。1996年に手術室・待合室・受付取り壊す。
    1780年より在住者が診療所を存続する。「設立者/明治時代に岩本より近光に改名する。」
    一代目~五代目迄で八名の医者により診療。
    その後、津山市に於いて六代目~八代目迄で四名の医者により現在(2019年)に至る。
(文:近光家歴代資料より抜粋/写真提供:近光家)

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 井戸(1700年には在りし~2019年現存)     母屋・土蔵
墓地は屋敷の南にあったが、墓じまいをされている。(上京)

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浜田藩西御殿跡                 貴布弥神社

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善福寺からみた里公文の景色と反対側から見た里公文の景色 (2019年8月10日撮影)