
倭文(しとり)神社(油木北)旧久米町

皆戦場〔合戦場〕(草加部)

津山の今昔を辿ってみました。(1)

行啓道路(津山市山下)

2019年8月8日立っているだけでくらくらするような炎天下、院庄にある作楽神社東側の発掘現場にお邪魔してきました。ここは住宅地になるそうで、その前に発掘調査がなされていました。現場で作業されているみなさんご苦労様でした。
発掘現場
土層がはっきりと見えます。
北側の発掘現場
発掘現場
発掘現場
発掘現場
発掘現場の位置
史跡院庄館跡
院庄館跡は、鎌倉~室町時代にかけての美作守護所と推定される遺跡である。
裏付ける史料としては『作陽誌』『院庄作楽香』があげられる。『作陽誌』に「慶長癸卯(8年)以前苫西郡院庄洲府たり」との記事が見られ『院庄作楽香』にも「文治後、総社に在し国府自ら廃り 鎌倉覇府の派遣せし守護職は、大率此地に居りて洲府と称せり」の記事がある。
2度にわたる発掘調査の結果、現在残っている土塁は往時の土塁を踏襲したもので、館の構築よりもやや遅れて築かれた。土塁内部には、井戸、堀立柱建物が存在した。青磁、白磁、墨書磁器、備前焼、勝間田焼など、遺物も多量に出土した。
このことから、守護所を中心とした建物群は、土塁の内部にあることがわかった。
現在、館跡の中央部には、後醍醐天皇を正祀とし、児島高徳を配祀とした作楽神社が位置している。
津山市教育委員会
贈 津山さくらライオンズクラブ5周年記念
史跡 院庄館跡
国指定史跡
(大正十一年三月八日指定)
院庄館跡は、鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館跡と推定される遺跡です。
ここはまた『太平記』に登場する後醍醐天皇と児島高徳の伝承の地としても有名であり、明治二年には館跡の中央部に作楽神社が創建されました。
大正時代の館跡周辺の切絵図には「御館」「御館掘り」「掘り」等の地名が見られ、当初の館の区域は現在の史跡指定地よりさらに大規模なものであったと推定されます。
また、「方八十間(ほうはちじゅっけん)」といわれた広大な館跡からは、昭和四十八年から四十九年と五十五年から五十六年に行われた発掘調査によって、井戸跡、建物の柱穴等が検出されました。
現在、館跡の東・西・北の三方には、幸いにも延長約五百メートルにわたる土塁が残っており、往時をしのばさせています。
津山市教育委員会
(文:現地案内板より)