美作の大庄屋巡り「安藤家 安藤善右兵衛(挙母藩)」

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安藤家 安藤善右兵衛(挙母藩)久米北条郡坪井下村
大庄屋まで
 安藤氏は、周防の大内義隆の家臣であった。義隆が陶晴賢によって滅ばされた後、天正元年(1573)香々美庄、のち河本村(鏡野町)に移住し、寛文3年(1663)子孫の太郎兵衛が坪井村に帰農したという。家譜によると天明年間、善右兵衛の祖父勘兵衛が挙母藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
 善右兵衛(善一)は、天保8年(1837)挙母藩の事務総掛を務めた後、大庄屋職を勤めている。慶応2年(1866)改政一揆のとき、津山に向う百姓に食物を与え説得して帰村させた。兄の鹿左衛門は救済などに献金し武士にとりたてられている。
美作国挙母藩領
 元禄15年(1702)内藤領(安中のち挙母=豊田市)となった久米北条郡内の12か村5千石余が、明治4年(1871)まで、169年間にわたって内藤家の領地であった。これを統括する陣屋は坪井下村におかれた。

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岸田吟香と安藤家
 挙母藩領の中垪和村に生まれた岸田吟香は、弘化2年(1845)12歳のとき、安藤家に学僕として住み込み、善右兵衛から多くのことを学んだ。15歳で安藤家を出た吟香は、東京で明治になって新聞の発行や実業家として多岐にわたって活躍する。善右兵衛との交流は生涯にわたったという。

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安藤家の墓所です。(初代の墓の字は岸田吟行が書いた字だそうです。)

屋敷・墓地
 坪井宿にある屋敷地に子孫が住んでいる。墓は菩提寺の浄土宗稱念寺(津山市坪井下)にある。
(2019年8月13日撮影)(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)