徳守神社墓地入口にある石碑
2015年4月28日撮影のこの石碑は、津山市小田中にある徳守神社墓地の入口にある。
何気なく通っていた道ですが、ふと見ると字がうっすらと見えてきたので、ご近所の方に伺うと「私の子どもの頃からあったもので、よく座っていたわ~。そんなこと気が付かなかった!」と驚いていらっしゃいました。徳守神社でお尋ねしても解らなかった石碑。さて、なんの石碑でしょうか?
2015年4月28日撮影のこの石碑は、津山市小田中にある徳守神社墓地の入口にある。
何気なく通っていた道ですが、ふと見ると字がうっすらと見えてきたので、ご近所の方に伺うと「私の子どもの頃からあったもので、よく座っていたわ~。そんなこと気が付かなかった!」と驚いていらっしゃいました。徳守神社でお尋ねしても解らなかった石碑。さて、なんの石碑でしょうか?
2018年2月3日、宮脇町の徳守神社で「大節分祭」の豆まきがあり大勢の人で賑わっていました。
1回目の豆まきは午後3時半から行われ、厄払いを受けた男女が特設舞台に上り、福豆やお菓子をまいていました。今年も大勢の参拝者で賑わった節分祭でした。
忠臣蔵で有名な赤穂浪士で美作国にゆかりのある、神崎与五郎則休・茅野和助常成・横川勘平宗利のことを忘れてはいけないと「三士祭」(主催:津山市観光協会、協賛:お国じまん研究会、後援:津山市文化協会)が、徳守神社境内の神崎与五郎歌碑前に於いて初めて執り行われました。(撮影:2017年3月1日午前9時~10時)
2017年10月22日(日) ~29日(日) 「第55回 美風盆栽展」が津山市山下の津山城(鶴山公園)内の鶴山館で開催されています。2017年10月24日の台風一過の日に拝見してきました。会場内のとても立派な盆栽に驚き、小さな枝に大きく実った柿を見て随分丹精を込めて育てられたんだなぁ~と感動しました。また、鶴山館の外では即売などがあり、鉢植えがずらりと並んでいました。茶道裏千家の淡交会津山支部の抹茶のお接待もありました。ちなみにオープンの日10月22日は、接近してくる台風の為「津山まつり」の徳守神社と高野神社のお祭りのだんじりやお神輿の出動が取りやめになったくらい近年にはない雨や風の強い日となりました。(2017年10月24日撮影)
2017年9月27日から10月10日まで、「小島 功展 ~現代の浮世絵師と呼ばれた男~」が宮脇町の徳守会館で始まりました。美酒、美味、美女に愛された作家小島 功。流麗で、やさしくて、時には力強く描かれる線。創り出される世界は果てしなくエロティックで美しい。半世紀以上にわたり生み出された作品群は、どれも圧倒的なエネルギーに満ち溢れている。今回の展覧会では、岡山県苫田郡鏡野町在住 和仁栄幸(正興)氏【備前焼】の作品(酒器を中心に30点程)と共に小島功全盛期時代の作品を原画、版画を含めて60点程展示販売。(文:案内チラシより)(撮影:2017年9月30日)
津山城西地区の旧出雲街道沿線を「まるごと博物館」に見立て、歴史と文化を詰め込んだイベント「津山・城西まるごと博物館フェア2017」が、2017年10月1日(日)(午前10時~午後3時)開催されました。この日は曇り空の天候でしたが、全国から来られた約50店舗のアート&クラフト店と約2万人の人出で賑わいました。年々とお店も人出も多くなり大盛況でしたね。(2016年)、(2013年)、(2012年)、(2011年)、
西寺町と茅町との境になる裏通りに若宮神社がある。鳥居の内に二間四方の小さな社殿があるが、この家の中から大木が生えている。樹齢四百年と言われ、優に二抱え高さ二十㍍に及ぶ椋の木である。
この木は徳守神社の社前にある椋と兄弟木という言い伝えがある。その神木伝説があるから社殿と一緒に残ったわけで、四百年ならば、築城記念の中に加えなければなるまい。徳守神社の表の石垣にもたれる椋も大きいこと周知の通りである。(文:故 白石哲氏)(2017年4月23日・24日、9月2日撮影)
慶長九年(一六〇四)、森忠政は徳守神社を城下の総鎮守として、築城と城下作りに取りかかったといわれる。以後、徳守さまと呼ばれて津山の人々に親しまれ、今も津山祭の中心として秋祭はにぎわう。その境内の北西の角、住吉神社の前に高さ約二㍍の二基の石灯籠が立つ。すっきりしたデザインは風格を感じさせる。左側の石灯籠に「寛文四年(一六六四)辰九月十九日古魚町」と刻まれる。右側の石灯籠には「寛文四年(文字が消えかけているが、間違いないと思われる)辰九月十九日二丁目」とある。
寛文四年は津山城が完成した元和二年(一六一六)から四十八年後。森藩が徳守神社北側の武家屋敷の一部を町家にして、宮脇町と名付けた明暦元年(一六五五)よりも九年後。この時期に、藺田川以西の町も城下に編入されていった。城下の町々が整い、発展を見せていた時期といえる。二基の石燈籠はそうした時期に、隣接する古魚町(元魚町)と二丁目が協力して町の発展を願い、寄進したのであろうか。森藩時代の町々の記録が少ない中で、この石燈籠に刻まれた二つの町名は当時を窺わせる貴重な資料の一つと思われる。二丁目と元魚町の中では最も古い記録である。
徳守神社の宮脇門から北を見ると至近距離、竹ノ馬場境に榎がある。これも大きく高い、昔から「境の榎」とされた一本である。南新座の方へ下りて、元の市立中央幼稚園のあった空き地の裏にも「境の榎」は残る。そこから少し東、妙願寺の南、長泉寺の裏にも一本があるが、上部が切断されている。
大木の落葉は墓地の大敵なのだから、止むを得ず「こうして境の榎は滅んだ」となるのであろう。また田町出雲大社の中には、囲いに保護された榎がある。これは田町中に数十本あった境の榎のやっと残った一本である。椋と榎いずれも城下町のシンボルには違いなかろう。(文:故 白石哲氏)