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忠臣蔵四十七義士・茅野和助常成について

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自眼流居合の使い手にして歌人
茅野和助常成
志深浅働次47士中43番目
・町医者に扮して、吉良邸付近を探索。
・赤穂浅野家に四年間仕えただけにもかかわらず、討入りに加わった。
・槍は浅野家屈指の使い手で、自眼流居合を得意とした。
・歌道で秀で、秀峰と号した。
生年・生国 寛文7年(1667)・美作国
役   職 横目
行   年 37歳(元禄16年2月4日、切腹)
祖父・父ともに津山森家に仕えていた。常成は最初から義盟に加わり、吉良邸探索に力を尽くした。泉岳寺修業僧白明の依頼により和歌一首、俳句一句を書いた。

森家に引き続き、浅野家でもお家断絶の受難に遭った和助
 父の茅野玄安、そして和助の二代にわたり、美作国津山(岡山県津山市)の森家に仕えてい た。ところが森家で家督相続争いが起き、お家断絶となってしまった。浪人になった和助は、赤穂に出てきたところを、内匠頭に認められて仕官することになっ た。それが元禄十年のことである。つまり仕官して四年目で刃傷事件が起きたのである。
 和助の妻は、中祐玄の女で、一子・猪之吉がいた。和助が切腹して果てたとき、わずかに四歳で母と赤穂にいたが、その三年後に死去し、赤穂の福泉寺に葬られている。

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↑ 松風庵                   茅野屋敷跡
 津山市河辺に松風庵という観音堂がある。遙か天平の頃からの由緒を持つというこの観音堂で、ひたすら祈念し続ける男がいた。故あって森家を退いた茅野武助、後の赤穂義士茅野和助の父である。和助は、この父の下で兵書軍学を学び、赤穂浅野家に五両三人扶持と役料五石で仕官していた。


【エピソード】
 二度のお家断絶にあっている。とくに浅野家には、まだ仕官して四年目で、ご恩も深いとまではいえまい。それでも和助は赤穂開城のときより、内蔵助に従い義盟に加わっている。内匠頭への一方的制裁、さらに幕府の一方的政策で、次々にお家が断絶することへの憤りもあったのだろう。
 ところで、浅野家の家臣には俳句をよくする者が多く、和助もまたその一人であった。
 討入り後泉岳寺に引き揚げ、内匠頭の墓前に報告を済ませた一同は、泉岳寺住職の酬山和尚の勧めに従い、休息となった。上野介側の追っ手として上杉家の者が来るやも知れずと警戒していたが、その様子もなく、幕府の沙汰を待つことになったのだ。
 寺の雲水たちは熱い粥を用意して、義士たちを歓迎する。そのうち雲水から「名残にご一筆をお願いいたします」と頼まれ、和助(禿蜂)は
 天地の外はあらじな千種だに
 もと咲野辺にかかると思えば
と、和歌一首、ついでに
 世や命咲き野にかかる世や命
と、一句書いて渡している。
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町医者の扮して吉良邸探索 討入りでは裏門組で戦う


【史実】
 開城後も赤穂に止まって、同志との連絡にあたっている。
 円山会議で仇討ち決行が決まると、大石主税の東下り随行した。芝源助町の磯貝十郎左衛門宅に同居、富田藤五と名乗り町医者に扮している。また、ときには町人・助五郎とも名乗っている。
 討入りは裏門組で、半弓で敵を射かけている。
 槍は屈指の使い手であり、自眼流居合をよくしたといわれている。
 本懐を達した後は、水野邸にお預けになり、値賀又蔵の介錯で切腹した。
 (茅野和助子孫・茅野大治 監修)

【もの知り顔】
四十七士は上野介の顔を知らなかった
 意外といえば意外だが、内蔵助以下だれ一人として、討入り前に討つべき相手の顔を見たことがなかった。人づてに似顔絵などは描いていたかもしれないが、遠目にも目撃していない。吉良邸探索には相当の努力をしながら、肝心の仇の顔を知らないまま討入っているわけである。今日では考えられないことだが、上野介が外出するとき、必ず屋敷の門内から駕籠に乗っていたのであれば、顔の確認ができなかったのも仕方がない。顔を見知っていただろう浅野家江戸詰めの家老たちが、早々と脱落していたことも一因。従って、義士たちは斬り合いながら「上野介らしき顔」を探し、眉間と背中の傷跡を唯一のよりどころとするほかなかったのである。


(文:忠臣蔵四十七義士全名鑑【完成版】特別監修:財団法人中央義士会)(許可済み)(撮影:2015年3月15日)


茅野和助自筆の手紙茅野家屋敷跡(かんべえ屋敷跡)茅野和助の木造大石神社大石邸長屋門初代赤穂藩主となった森長直赤穂城大石内蔵助良雄と森長直は山鹿素行の塾で同門の仲