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取材記事内を検索ワード「大日如来」で検索した結果,67件の記事が見つかりました。

竹本山 医王寺(津山市加茂町青柳)

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 当社は青柳にあって、竹本山 医王寺と号し醍醐派真言宗に属する当山派山伏寺である。本尊は大日如来である。

 開山は不明である。もと字寺山にあったが、文永二十一年(1274)に僧聖覚房が中腹に移建し、さらに天文二十一年(1552)に矢筈城主草苅衡継が現在地に移したと伝えられる(『苫田郡誌』)。本尊大日如来は、像長一尺の一本造りである。寺の行事は、正月二十八日には、部落ひとびとが本堂で大師講を行っている。2012.9.20取材(文:加茂町史より)

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清瀧寺 六十六部 廻国供養と六体地蔵

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清瀧寺仁王門に隣接した東の土手際に、江戸時代の民間信仰を代表する地蔵の石塔や大日如来、六十六部廻国供養等の供養塔がある。
多数現存している大日如来の供養塔については、後述するとして、時折散見される六十六部の廻国供養塔に注目したい。
清瀧寺の供養塔には、「宝永五戌 祈 願主 (梵字)六十六部廻国供養 十一月十八 春教」とある。六十六部とは、俗に六部とも言われ、本来は厨子を背負い、書写した衆生救済の法華経を全国66ヶ国の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴して廻る行脚僧のことである。鎌倉時代末期に始まっているが、江戸時代には俗人も行い次第に大衆化した。男女とも白地の木綿の着物に、手甲、甲掛、股引、脚絆といった巡礼姿で鉦を叩き、鈴を鳴らして巡回した。
宝永5年(1708年)といえば、江戸時代半ば、大阪~東海で大地震があり、富士山が大噴火した惨害の翌年であり、春教という行脚僧の心境がしのばれる。(2012.3.21)

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田熊 参道石碑群(3) 神變大菩薩等修験道碑

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田熊 参道石碑群(3) 神變(しんぺん)大菩薩(だいぼさつ)等修験道碑(とうしゅげんどうひ) 
 神事場南の石碑群の中で、目立って大きいのが、東側基壇上の2つの修験道碑である。この石碑は、本来もう少し東に位置していたのが、昭和の初め、家の建築に際して現在地に移されたそうで、文政6年(1823年)のものである。石碑には次のように刻まれている。

(梵字)神變大菩薩
文政癸未年 願主 福島譽次
村々 惣講中

(梵字) 大月如来
(※梵字は○印の中にある) 
 神變大菩薩というのは、修験道の開祖、役行者(役小角)の諡名である。
 寛政11年(1799年)の役小角一千百年御遠忌にあたり、光格天皇から時の聖護院にこの諡号が与えられ、以後、この別名で祀られることが多くなった。(2012.1取材)

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田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来

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田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来(2012.1.取材)
 題名に揚げている小椋里右衛門碑というのは、數士のとなのる門人(弟子)たちが建立した、小椋里右衛門の顕彰碑のことである。この碑文は、次の通り。
(塔) 発起 世話方
小椋里右衛門一清碑
植月北村
鳥家音五郎一尊
(台座) 敷士
門人中
誌之
(裏)惟時 安政三丙辰歳九月吉日
辞誓 (万葉仮名で句が刻んであるも、文字不明につき不祥)
(部分的には、"算礼に○○と きくなり 数のたみ"と読める。)
 小椋里右衛門は、いわゆる芸名に相当する贈名(諡)であって、本名は久常里四郎と名乗り、近くの勝加茂村安井の濃野重蔵次男と言われている。久常家より嫁がせた嫁が間もなく里帰りしてしまったため、里右衛門は、結果的に当地に来て婿になったようで、久常姓を名乗った。近くに里右衛門の墓があり、墓標には、久常里四郎 74歳明治11年(1878年)9月3日没とある。
 若くして他界した娘の墓には、里右衛門娘と記入があり、里四郎と里右衛門とが同じ人物であることがはっきりと分かる。
 田熊には、算仙と言われて名高い和算の大家、中村周介・嘉芽市が輩出していることから、和算を門人たちに指導していたのではないかと思われたが、地元では、算盤の先生であったと伝えられている。どこでどのような私塾を開き、植月の鳥家音五郎以下門下生に教えていたのか、その活躍は不明で、今後の調査に待つものである。

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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標

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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標(2012年1月28日取材)
 自動車の通行を考えない昔は、山坂をいとわず、ほぼ直線的な最も近いところを道筋としていた。農山村地域に残されている旧道の山道は、たいていは上り下りの変化は大きいが、最短コースを考えた道筋であった。
 加茂谷や日本原を受けて、近長方面から大崎方面(播州街道)に抜ける南北の道や真加部・植月方面から田熊を経由して河辺方面(備前街道)に至る東西の道は、河面の下山地域を通過していた。とりわけ、勝田町真加部から勝央町を通って河辺・津山と結ぶ道は、津山真加部街道として、年貢米の輸送、商人の往来、寺社詣での主要道路として栄えていた。河面でちょうどこの接点に相当している場所が、下山地区の吉田家(吉田富之助さん宅)であった。江戸時代、吉田家は、萬屋の屋号をもち、茶店を営み繁盛していた。参詣にやって来た津山の殿様も、必ずこの萬屋に立ち寄り休憩して、威儀を正して清瀧寺なり広山八幡宮にお参りしたと言われている。当時は、河面の集落も吉田家周辺の丘陵上に多くあったということである。 

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瀧尾山 西法寺

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瀧尾山 西法寺(2011.7.10取材)
 この寺は天台宗(伝教大師・最澄)瀧尾山西法寺といい、天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺です。昔は妙原の大谷山にありましたが、山津波にあって寺が壊れたため、寛文11年(1671年)に堀坂へ移したもので、ご本尊は不動明王です。
 お不動さんは右手に剣を左手に綱を持ち、左目を閉じ口を斜めに噛みしめ、しかめた顔をして体の色は青黒く、火炎を背中に負って険しい岩場に立っています。
 大日如来の命令を受けて、人の心に住む悪魔を退治するといわれています。恐ろしい姿でですが、本当は心のさしい仏様で、心がよくない方向に向かっていると正しい方向へ戻してくださるといわれています。
 この本堂は文政8年(1825年)に建てられたもので、本堂が無事に完成することを願って参道口に六体地蔵が寄付建立されました。また平成14年4月に内仏殿と庫裏を改築し内仏殿には阿弥陀如来を中心に、伝教大師最澄、檀信徒のご先祖を祀っています。
 この寺は、加茂郷88ヶ所霊場第54番札所です。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)

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高福寺(阿波)

あじさい寺。
摩尼山高福寺は、京都市花園の妙心寺を本山とし、大日如来を本尊とする臨済宗寺院である。
初代津山城主忠政が、美作一八万六五〇〇石の領主として、慶長八年(一六〇三)に入封し、慶長九年(一六〇四)に、津山神戸にあった安国寺を津山小田中の地に移して、名称を本源寺に改め、天倫玄節大禅師を開山として森家の菩提寺と定めた。
その後、本源寺開山天倫玄節大禅師をこの地に勧請し、元和四年(一六一八)に摩尼山高福寺創建された。高福寺は創建開山禅師の因縁により、津山城主森家の鶴丸を寺の紋として使用することがゆるされている禅宗寺院である。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/aba_koufukuji/index.html