田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来

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田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来(2012.1.取材)
 題名に揚げている小椋里右衛門碑というのは、數士のとなのる門人(弟子)たちが建立した、小椋里右衛門の顕彰碑のことである。この碑文は、次の通り。
(塔) 発起 世話方
小椋里右衛門一清碑
植月北村
鳥家音五郎一尊
(台座) 敷士
門人中
誌之
(裏)惟時 安政三丙辰歳九月吉日
辞誓 (万葉仮名で句が刻んであるも、文字不明につき不祥)
(部分的には、"算礼に○○と きくなり 数のたみ"と読める。)
 小椋里右衛門は、いわゆる芸名に相当する贈名(諡)であって、本名は久常里四郎と名乗り、近くの勝加茂村安井の濃野重蔵次男と言われている。久常家より嫁がせた嫁が間もなく里帰りしてしまったため、里右衛門は、結果的に当地に来て婿になったようで、久常姓を名乗った。近くに里右衛門の墓があり、墓標には、久常里四郎 74歳明治11年(1878年)9月3日没とある。
 若くして他界した娘の墓には、里右衛門娘と記入があり、里四郎と里右衛門とが同じ人物であることがはっきりと分かる。
 田熊には、算仙と言われて名高い和算の大家、中村周介・嘉芽市が輩出していることから、和算を門人たちに指導していたのではないかと思われたが、地元では、算盤の先生であったと伝えられている。どこでどのような私塾を開き、植月の鳥家音五郎以下門下生に教えていたのか、その活躍は不明で、今後の調査に待つものである。


 そばにある大日如来には、次に文字がある。
(表面)  (梵字)大日如来
(背面)明治35年8月
牛馬安全
施主 廣野 ○○
 この大日如来碑は、作州一般に広く散在している典型的な農耕牛馬に関わる石碑である。美作の自然と文化財を守る会の調査によると、こうした大日如来の供養塔は、津山市内で88体、美作全体では、およそ150体以上は見受けられるとのことである。
 当時の農家にとって牛(馬)は、農業経営に最も大切な家畜であっただけに、その病気や死は大変な痛手であった。そのため、一般的には農家は万人講をつくっていた。牛(馬)が死ぬと、その農家に新たな購入を助けたり、牛(馬)の供養をしたりした。供養塔は、こうした機会に、援助を受けた農家によって、感謝と供養と購入した牛(馬)の安全を祈って建立された。(文: 宮澤靖彦 編著 広野の歴史散歩より)