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取材記事内を検索ワード「寺町」で検索した結果,74件の記事が見つかりました。

第13回 2013津山城西まるごと博物館フェア

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「手仕事のまちが蘇る アート&クラフト展」が10月6日(日)10:00~15:00作州民芸館周辺で執り行われました。秋の抜けるような青空の下、城西のなつかしい味が大集合!、模擬店広場で売り切れ御免フェア、お宝さがし、作州絣の実演、レトロ市場、木工教室など。また、ステージでは、津山ジュニアブラス、シティーブラス、城西まるごと合唱団の演奏をはじめさまざまなイベントも行われました。

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本源寺 総門(津山市小田中)

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▲本源寺の総門 (2013年6月17日、7月3日取材)

 江戸時代前期までに建てられた津山藩森家菩提寺の東海山 本源寺の総門は、津山城の門だったとの言い伝えがありますが、文献は残っていないそうです。


 江戸幕府が開かれたとはいえ大阪の陣の前でもあり、戦国の熱さめやらぬこの時期、より戦を念頭に置いた城造りと城下町造りが始まる。津山城は五層の天守を始め、77を数える櫓、40近い城門など百数十の建築物がひしめく壮麗な城で、12年かけて完成した。
  城下の町造りも城下防衛上の理由から、寺院を城の東西に集中させ寺町を形成した。18世紀初頭には、城の西に24ヶ寺、東に10ヶ寺と圧倒的に西に寺院が多い。また、津山城の五層の天守も西を見渡せるように建っており、城下防衛は西側に重点が置かれていた。

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2013年本行寺(ほんぎょうじ)の枝垂桜・ひがん桜(西寺町)

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本行寺(ほんぎょうじ)のしだれざくらとひがん桜(2013年3月28日取材) 

本行寺は、慶長9年津山市街の成るに及んで南新座に移り、更に今から約367年前の元和2年に現在の西寺町に移ってきた。境内墓地には「人間裁判」の故・朝日茂氏のお墓がある。(詳しくはこちらで)

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曹洞宗 成興寺(じょうこうじ)

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曹洞宗 成興寺
 沿革
 そもそもの成興寺開基は、夢窓国師(京都天竜寺開山)と伝えられ、JR因美線美作河井駅から登る矢筈山上にありました。久しく廃絶していた寺を天文年中(1532~54)に、草苅加賀守衡継が矢筈山頂に居城を築く際、菩提寺として再興しました。(成興寺丸跡あり)
 天正12年(1584)草苅氏退城後、寺も廃址に帰しましたが、文禄3年(1594)に草苅氏の家臣で、小中原の土豪中西孫左衛門が、現在地に再興しました。元禄2年(1689)津山西寺町長安寺三世白善嶺雲和尚が曹洞宗に改めて開山となりました。現住職小倉玄照和尚は、第十三世。(2012年4月21日撮影)文:曹洞宗 成興寺(津山市加茂町小中原41)

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愛染寺

城下町津山の西寺町を東西に走る旧出雲街道に面して建つ愛染寺。もとは金剛寺と称したが、延宝年中に愛染寺に改名。
鐘楼門の両脇に仁王堂が付属している珍しいもので、下層柱を内転びにするなど細かい技術的工夫がされている。
鐘楼門及び仁王堂は、岡山県指定文化財建造物に指定され、仁王像は市指定文化財彫刻にも指定されている。
5月の上旬にはボタンが見頃。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/aizenzi/index.html

妙法寺

妙法寺は山名美作守忠政が鶴山柳の段に妙王院を創建(1440年頃)したことに始まる。1570年頃中興法恩院日充上人が妙王院を妙法寺と改称する。森忠政が美作に入り(1603年)築城地を鶴山に決定した。これに伴い妙法寺を南新座へ移した。その後、城下町造営の拡大に伴って、西寺町の現在地に移った(1617年)。
現在の妙法寺本堂は、県の重要文化財に指定されており、正面5間(16.9m)側面(18m)の大きな平面を持った堂宇である。鬼瓦の側面の記載により1653年頃の完成と思われる。他に市の重要文化財に指定されている鰐口があるが、この鰐口には(慶長18年(1614)年暦9月21日作州富川村妙法寺)とあり、これが(津山)の名称の、現在確認できる最初の使用例とされている。境内には、津山藩松平家絵師狩野如林、森家刀匠兼景、文人画家飯塚竹齊、女子教育の先駆者竹内文子などの墓がある。(情報提供:妙法寺)
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/myouhouzi/index.html