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取材記事内を検索ワード「森忠政」で検索した結果,148件の記事が見つかりました。

新しく整備された京橋門

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 京橋門は、大手筋に位置する門です。堀にかけられた木橋を渡ると正面には石垣で囲まれた空間があり、右手に折れると門があります。これを桝形虎口といい、厳重な造りとしていました。現在、門や石垣は一部現存しているのみですが、絵図から、門は櫓門であったことがわかります。
 現存するのは桝形虎口西側の石垣とそれに続く土塁の一部ですが、土塁は明治の廃城以降も累々とめぐっていたことが知られ、地元の人々からは、「万里の長城」と呼ばれ親しまれていました。
 周辺は明治36年(1903)、津山高等女学校の敷地となり、この石垣上には昭和7年(1932)完成の而立館(同窓会館)が建っていました。(文:現地案内版より)(2018年4月29日撮影)

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津山・森藩・松平藩の代表的な豪商「錦屋」

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2018年3月30日の森本家とつやま自然のふしぎ館です。

 森本家は、錦屋を屋号とし、伏見町で呉服商を営む津山藩の御用商人だったそうです。先祖・森本儀太夫(永禄6年<1563>生まれ)は加藤清正の重臣で熊本城下に居住しており、その弟一族が津山藩主森忠政に召されてこの地に土着し商人となり、藩主森家・松平家に仕え、町年寄、札元などを勤め藩政の御用にあたってきた家で、9代目の藤吉さんは津山銀行頭取(明治12~42年)や町会議員を務め、町の発展に尽力されました。(呉服商の店は明治42年まで続けられていたそうです。)

 藤吉さんの子・慶三さんは、明治33年、両親に無断で内村鑑三に入門しようとするが、最初は断られ、のち、両親の許可を得た上で入門を許され、東京帝国大学農科大学に学び、内村鑑三が日曜日に自宅で開く聖書講義に毎週欠かさず出席し、その教えに共鳴し、明治34年にはキリスト教に入信。明治44、45年には内村鑑三を津山に招き、聖書講演会を開くなどキリスト教伝道に努めたそうです。

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三寶荒神社(新魚町)

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三寶荒神社略誌 
・社号 三寶荒神 ・社鎮守地 津山市新魚町三十二番地 ・祭神 火産霊神奥津比古神奥津比売神
由緒
 三寶荒神社ハ祭神、火産霊神・奥津比古神・奥津比売神(亦名大戸比売神)ニシテ蓋シ竈神又厨房ノ神ナリ 当神社勧請、年代ハ詳カナザルモ伝説及境内ニアル榎ヨリ推定スル二今ヲ去ル三百年以前ニテ森忠政侯入府前戸川宿時代此地方ノ住民ノ祭レル鎮守ノ神ナルベシ(註往時農村ニハ上十石ト稱シテ十石ヲ収穫スル土地ヲ一廓トシテ荒神ヲ祭リシモノナリト云ヒ市街地ニハ少ナキ神社ナリ)
 森忠政侯入府ト共二戸川宿ヲ中心ニ附近ノ土地ハ津山城下トシテ日々繁華ナル市街地トシテ人家次ギ次ギト建チタルモ旧来附近住民ノ信仰ハ、猶集中シテ衰ヘズ榎ノ側ニ小サキ社ヲ造リ竈ノ神又厨房ノ神トシテ益々祭神ヲ厳修シテ今日ニ至レルモノナリ
 松平侯時代迄ハ木知ヶ原町(現今ノ堺町)ヨリモ参道アリテ参拝者モ多ク殷賑ナリシガ参道附近ノ繁栄ト共ニ何時シカ参道ハ人家ニテ塞ガリ天保中頃ヨリ新魚町ノ繁栄ニツレ後遂ニ新魚町東組ノ鎮守社トシテ専ヲ恒例ノ祭事ヲ行フ事トナリ商売隆盛ナルト共ニ崇敬愈々篤ク以テ今日ニ至レルモノナリ
 新魚町ヨリ参道ハ現在ノ西側半間程ナリシガ吉元宗治郎(入江万治郎弟)大病時共平癒ヲ祈リ其東側ヲ寄進シ現在ノ参道トナセシモノナリ(明治二十四年)境内東側堺町(現在稲村氏、住所地)ヲ荒神屋敷の稱シ神宮小林もんど明治初期住居セシ土地ナリ

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新見御殿町まち歩き【2】

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新見藩の歴史
 このまちは江戸時代元禄10年(1697年)に初代新見藩主関長治侯によってつくられたまちです。新見藩は1万8千石です。元禄時代はすでにお城は造れない時代でしたので、御殿(官邸)を建て、そこで政務を執られました。このことによりこの地区を新見御殿町と言っています。
 関家と森家の本国は美濃です。両家は濃い姻戚関係にあり、共に織田信長に仕えておりました。天正10年、本能寺で織田信長に最後まで従って戦死した森蘭丸、坊丸、力丸の一番末の弟が千丸で、千丸だけが幼くて美濃に残っておりました。その後、千丸(森忠政)は関ヶ原の戦いで功を認められ、徳川幕府から津山藩18万6千石を賜りました。この森忠政侯が津山藩森家の藩祖です。その時、関家も津山へ移りました。津山藩森家の2代目のお殿様は関家の長男(長継)で、長継侯の子、長治侯は逆に関長政侯の養子となり、作州津山藩の中に1万8千石の領地をもらって大名となりました。森家5代目衆利侯が急死し、跡継ぎが無かったのでお家は断絶。森家は分かれて播州三日月城と播州赤穂城へ移らなければならなくなり、それに伴って関家も津山から新開地の新見へ移封されることになりました。元禄10年のことです。こうして新見藩が誕生したのです。
 その後、新見藩関家は明治まで9代続き、現在は第13代末裔の関勝氏は埼玉県におられます。

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備中櫓(鶴山公園内)

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備中櫓は天守台の南東、本丸南面に突出した石垣上に立地する2階建ての櫓です。
 高さ約13メートル、幅約24メートル、奥行き約8メートルで、延べ面積は約288平方メートルです。
60を数える津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物であるといえます。
構造
 備中櫓は、木造一部2階建てで屋根は本瓦葺きの入母屋造り、外壁は軒廻りも含めて白漆喰塗りです。通常、櫓の内部は板敷きあるいは土間ですが、この備中櫓の内部は全室畳敷きという特徴を持っています。

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津山城・津山の城下町

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津山城
 津山城は1604年(慶長9年)に着手され、13年後の1616年(元和2年)に完成しました。
 この場所は鶴山を中心とする一帯で、藩主にとっては城下町をつくり、常備軍をひざもとにおいて不意の戦争に備え、農民に対して武士の力強さを誇示できると同時に、藩内の統治にもっとも便利な場所として選定されたものと考えられます。
 形式は丘陵とそのふもとをとりいれた平山城で、縄張(郭.堀.城壁.虎口等の配置規模を決めること)は巧妙で、また施設も堅固にできており、本丸を守るためにとてもよく考えてつくられています。
 山頂に本丸を定め、その西部か堅固な石垣で区切って、ここを天守曲輪とし、中央に五層の天守閣が設けられています。その東側と本丸を東北に向けて強く張り出させたところには特に髙い石垣を築いて櫓を点在させています。また、北側の急斜面はこれを利用して坊塁を築き、東側のがけは急な勾配で宮川に面しているので、そのまま防備に利用されています。

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全国に知られた富豪「蔵合家」

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全国に知られた富豪「蔵合家」
 二階町をはじめ津山の城下町の成り立ちに深いかかわりをもったと思われる「蔵合家」について。
西側の家並の中で、現在の日専連ビルから北の中央病院の寮(旧電々局合)まで、二階町の表通りに面して日専連ビル、美作印刷、津山郵便局、津山中央病院寮が並んでいるが、江戸時代には蔵合家がここに居を構えていた。
「津山惣町改町」の二階町の項に、南から「西へ通る横丁あり。蔵合孫左衛門=表口23間、奥行17間、京町塩谷新兵衛持ち屋=表口4間半、奥行17間、白銀屋久兵衛=表口7間、奥行17間。西へ通る横丁あり」と記される。南の「西へ通る横丁あり」は日専連ビルの南側の通りで「馬方町」ともいわれる。次の「横町あり」は中央病院横で「八百屋町」と呼ばれていた通り。ともに舗装の下に元禄期の小路がそのまま息づく。
現在も家数は少ないが、元禄10年はわずかに3軒である。大半を「蔵合孫左衛門」の家で占め、表口は23間(約41㍍)である。

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津山と松尾芭蕉の縁

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 津山城(鶴山公園)に松尾芭蕉の句碑がある。津山と松尾芭蕉の縁を調べてみました。


 全国に知られた富豪で俳人でもあった蔵合の五代目孫左衛門直良は、元禄(1688-)から享保(1716-1734)年間頃、全盛を誇った蔵合家当主。西鶴が『日本永代蔵』にえがいたのも直良の時代と思われるが、芭蕉とも交友を結び俳人でもあった富豪の面影をしのばす。俳号は「推柳」という。句集『夢三年』(寛政12年、岡山の佐々木松雨が編集)の中に、芭蕉の友人・山口素堂の一文をのせている。その中に「津山の住、推柳子のもとへ赤木氏より、わが友芭蕉の翁が絵かきて自ら賛せるを送らせー」とあり、芭蕉と蔵合直良推柳の交友を窺わせる。芭蕉が送った自画賛については享保元年(1716)に、やはり芭蕉門の俳人・月空庵露川が門人の燕説を供に津山を訪れた時の紀行『西国曲』に次のように記されているという。紀行には蔵合の繁栄ぶりを示す記事もあり、西鶴の『日本永代蔵』をさらに裏付ける。(2015年4月21日撮影)


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極楽山 光厳寺(西寺町)

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 極楽山 光厳寺は、1614年(慶長19)に院庄にいた豪商蔵合氏の願いにより、院庄の清眼寺住職秀照により建てられました。本堂は当時のものといわれ、本尊は不動明王です。子育て不動として有名で、多くの人がお参りしています。不動明王像は、船頭町の田原屋六兵衛が牛窓沖から引き上げられたといわれる等身大のもので平安末期頃に作られたものです。
 蔵合は森忠政の城下町づくりのため、二階町の日専連・津山中央クリニック辺りに呼び寄せられました。初代は隠居秋庵孫左衛門、2代目は山口祐雪。本名は山口氏でしたが、屋号が蔵合屋と名のっていたので2代藩主森永継から「ぞうごう」と呼ばれ、苗字を蔵合と変えました。蔵合山口氏ともいわれました。

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