新しく整備された京橋門

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 京橋門は、大手筋に位置する門です。堀にかけられた木橋を渡ると正面には石垣で囲まれた空間があり、右手に折れると門があります。これを桝形虎口といい、厳重な造りとしていました。現在、門や石垣は一部現存しているのみですが、絵図から、門は櫓門であったことがわかります。
 現存するのは桝形虎口西側の石垣とそれに続く土塁の一部ですが、土塁は明治の廃城以降も累々とめぐっていたことが知られ、地元の人々からは、「万里の長城」と呼ばれ親しまれていました。
 周辺は明治36年(1903)、津山高等女学校の敷地となり、この石垣上には昭和7年(1932)完成の而立館(同窓会館)が建っていました。(文:現地案内版より)(2018年4月29日撮影)

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京橋門跡の公園整備が完了しました。(2016年時点の京橋御門跡南側の石垣
 現在国の史跡になっている津山城跡の周囲には、かつて堀がめぐっていて、6つの門が配置されていました。その内の大手筋にあたるのが京橋門です。現在、京橋門跡周辺には、当時の石垣や土塁が残っていて市指定の文化財(史跡)となっています。
公園整備事業では、平成28年度に石垣南側の土地(320.67㎡)を公有化し、そこにあった建物を撤去したことで、南側からの石垣の眺望が大変良くなりました。
29年度の整備工事では、石垣上を土系舗装として転落防止柵やベンチ、説明板を設置しました。石垣上に上ると東側前面にかつて門があった事や西側には土塁の一部が残存していること、北側を望むと備中櫓方面が見える事から、当時の津山城跡の大きさや構造を実感することができます。
また、石垣南側の公有化した場所は堀の一部であったので砕石敷きとしています。堀が埋められていますが、かつては幅24m程の堀が巡っていて、京橋門には木橋がかけられていました。
公園は自由に散策することができます。京橋門跡を見学してから、津山城跡に行ってもらうと、当時の津山城の大きさを実感することができます。(文:文化課文化財保護係)

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津山城の堀と門
概要
 慶長8年(1603)、森忠政は美作一国18万6千5百石の国持ち大名となって、吉井川と宮川の合流地点を見下ろす「鶴山」に城を築き、城下町を建設していきました。
 津山城は、小高い山を利用して本丸を囲むように二ノ丸、三の丸が配置され、天守を初めとする建物群がコンパクトに存在し、壮観であったと思われます。
 さらに城の北・西・南側は堀(幅約24m)で囲まれ、その中に重臣の屋敷地を配置しました。堀には6つの門が配置され、大手筋にあたる京橋門や二階町門。田町門、作事門、北門、宮川門があり、現在堀は埋め立てられていますが、一部にその痕跡がみられます。城下町は戦災などによる大きな改変がほとんどないことから、かつて存在した堀の場所や門の跡をたどることができます。
 当時の絵図によると、現在地は京橋門桝形虎口南側の堀の中にあたります。石垣の西側には土塁が一部現存していますが、当時はこのような土塁が堀の内側にそって累々とめぐり、その上には土塀や櫓がありました。京橋門の石垣が一部現存していますので、石垣の上から当時の津山城の大きさを実感してみて下さい。

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桝形虎口西側の石垣です。

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地元の人々からは、「万里の長城」と呼ばれ親しまれていました。

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石垣の西側には土塁が一部現存しています。    新しくなってベンチが設置されております。

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ここで拝見すると京橋門の位置がよく解ります。
石垣の上から当時の津山城の大きさを実感してみて下さい。