上部神社(うわべじんじゃ)(草加部)
上部神社 所在 神庭村大字草加部
譽田別命を祀る。天照大御神及び天兒屋根命を相殿とす。初め欽明天皇32年天照大神を祀り上部大神宮と稱す。次て清和天皇貞勸2年更に譽田別命を勸請し天照大御神及び天兒屋根命を相殿に祀り上部八幡大神宮と改稱し、養和中初めて放生會を行ふ。明治6年村社に列せられ上部神社と改む。同40年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(文:苫田郡誌より抜粋)2014年9月26日取材
上部神社 所在 神庭村大字草加部
譽田別命を祀る。天照大御神及び天兒屋根命を相殿とす。初め欽明天皇32年天照大神を祀り上部大神宮と稱す。次て清和天皇貞勸2年更に譽田別命を勸請し天照大御神及び天兒屋根命を相殿に祀り上部八幡大神宮と改稱し、養和中初めて放生會を行ふ。明治6年村社に列せられ上部神社と改む。同40年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。(文:苫田郡誌より抜粋)2014年9月26日取材
『美作國神社資料』には「苫田郡高野村大字高野山西字菅田村社 山西神社 祭神 莬道雅郎皇子 祭日 例祭十月二十日 本殿 拝殿 境内坪数 弐百五拾坪 氏子戸数 八拾個(当時) 由緒沿革 不詳」とあります。「新訂作陽誌」には、「高野郷 高野山西村之記」において、「乙宮大明神 菅田分氏神乙宮に在 祭神 八幡の分神と云ふ 本社三尺五寸四方東向 拝殿二間三間 社地東西五十間許 祭日九月十四日」とあります。境内には、荒神社と天満宮が祀られています。
河辺の氏神様で、御神体:天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 御本尊:月夜見尊
(つくよみのみこと)がまつられており、境内には昔河辺村内に点在していた神様を移転し、まつってあります。本殿は、昔加茂川の近くにあった社を、山上がり(桝形に由来する)の際に、現在の場所に移転されました。
千光寺の墓地には珍しい墓碑が二基ある。その一つは、槍の形をした鉄製の墓碑で、"宗越作藩舊臣本多監物重威貫一虚空居士"と戒名が刻まれ、慶応3年(1867)に鋳物師百済助順が建てたと刻まれている。
いま一つは、酒を入れる角樽の形をした墓石で、水鉢が盃形、花筒が徳利形(現在、花筒は破損し竹になっている)の立派な墓碑である。夫婦墓で、樽形の墓石に"桃林樹仙信士"(宝暦3年3月15日没)、"空山恵光信女"(宝暦3年8月19日没)と戒名が刻まれ、台石にその子息と思われる者が、建碑の趣旨を次のように刻んでいる。
西谷上集落の北端の林の中に若宮神社が祀られている。
御神体は木像の女神で文武両道の成就は勿論、農工商業の繁盛にも霊験あらたかな神様として崇められ、氏子は西谷上組合を中心に西谷下・深山の一部である。
江戸時代には現位置東の田の中(字石田)にあった社を別所城跡地(字城山)に移して社屋・籠殿を完備し、大祭には多くの参拝者を集めていたと伝えられているが、明治40年代に村内の神社を高倉神社に合祀した際、若宮神社も高倉神社の境内に遷座し高倉神社の一社として祀られた。
本神社は元弘元年(1331)3月、筑前糟屋郡の宗瀰神社の御分霊を加茂川の西岸に祀ったのが創りである。 貞享2年(1685)津山城主森長継が人家を現在の山麓に移住させた時、現社地に遷し、鶴山城東方の守護神、林田郷の二宮として尊崇した。もと、子安八 幡・弓矢八幡宮と称した。明治4年八幡神社と改称し、同6年村社に列した。明治42年7月、金田神社を合祀した。昭和12年1月神饌幣帛料供進神社に指定 せられた。御祭神:息長帶比賣命(2013.1.3)(文:岡山県神社庁より)
東谷の釣井から西谷に越す坂道の上にお不動さまがある。
お堂は平成元年に改築されたもので、堂内の中央に厨子に納めた不動明王、両側に観音菩薩・薬師如来・弘法大師など、多くの仏像が安置されている。
お堂の東側(字本願寺)には、この場所が津山城の鬼門に当たることから、元禄元年に城主森家の祈願所として建立された山伏寺の極楽山本願寺があった。この極楽山本願寺が廃寺となった後、その木材を用いてお寺の西側(字堂西)に不動堂を建て、本尊の不動明王を安置したと伝えられている。
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御祭神(大足比古大神、大足比女大神、譽田別大神、伊邪那美大神、菅原大神)
由緒
本社は美作国古社百十二社の其一にして天平年間以前の勧請なり、當神祭神 大足之神は民福を計りて此地に池を築かしめ給ひしに依りその御功績を永遠に伝えんがため御名大足を池名とし本社に勧請せしものなり 故に中古迄は社名を、大足宮と申し戦国時代に至り諸国の神社兵火に懼るに依り其災を免れんとして武人の尊崇せし所の八幡宮と改稱し、明治二年現社名に改む 往古より社領二反六畝五歩を有せしが慶長十三年浮田中納言のため没収せられる。
主祭神 稚日?尊 天宇受売命 倭姫命
由緒沿革 祟神天皇の御代に勧請したという。本神社をイツキと称するのは、織部、勝部、祝部に縁の深い弓月の君、即ち融通王をその部族が奉祀したものであるからともいう。国司が総社を建立して以来、総社に神幸せられて奉幣に預かったという。森、松平侯の別邸が指呼の間にあって、崇敬も厚く、祭祀日に奉納があった。
下高倉東公会堂の北入り口の上に牛王神社がある。
この地方に伝染病が流行した天正3年(1575)に、牛王天皇を祀って祈念したところ、霊験あらたかに伝染病が治まったと伝えられている。御神体はこぶし大の自然石で「牛王天皇 天正三年□□□」と記されている。以後、近隣の人々に崇められ、今も上塩上、下2組合では春の彼岸にお祭りをして、家内安全・五穀豊穣を祈念し小宴を催している。(文:高倉の歴史と文化財より)