取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「神社」で検索した結果,763件の記事が見つかりました。

出雲街道 坪井宿

9.jpg

坪井宿は、津山から三里半(約14キロメートル)程の距離にある。津山を発した出雲街道は、院庄から吉井川を渡り、中須賀・領家(茶屋)・千代・坪井と久米町内を経て真庭郡落合町へ通じているが、その宿場跡として唯一町内に残っている場所が坪井宿である。
ここ坪井がいつごろから宿場としての役割を果たしていたのかは定かではないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が美作国主として作州に入封した慶長8年(1603)以降といわれ、以後、街道の整備や交通量の増大にともない、陰陽交通の要として宿場機能の充実がはかられていったと考えられている。さらに、元禄10年(1697)森氏廃絶ののちは一時幕府領となったことにより、幕府の代官所が宿場内に置かれたため、以後は宿場町であるとともに、政治的な機能をも併せもつこととなった。
かつての町は、七森川から引いた水が流れる水路が中央にあり、それを境に南北に二分されていた。水路を挟む道路は南北それぞれに二間(約3.6メートル)の幅をとり、北側の道路は出雲街道で多くの旅籠や家屋が並んでおり、対して南側の道路は里道といい、一般の使用に供されていた。このような町のかたちから当時は「麦飯町」の異名もあったという。そして、水路のほとりには柳が植えられ、現在、町中にある常夜灯もかつては水路のたもとで灯りを点じていたとのことである。
宿場町坪井は、江戸・明治・大正・昭和とその役割を果たしたのち、宿場当時の面影を残す平静な住宅地となり、現在に至っている。(2010年5月30日)
久米町教育委員会

出雲街道 坪井宿の続きを読む

田邊城跡

11.800_17.jpg
▲2010.4月29日

田邊城(年末砦)
 田邊城は津山市中北上と宮部下の境界線上の、標高231米の山上、600米にわたって砦は構築されている。
この城の縄張りは、縄張図でわかるように馬場曲輪をふくむ19ヶ所の曲輪から成立ってている。主郭は東西が22米、南北17米の長方形で周囲を土塁で囲んでいる。
主郭の東側に曲輪があり、その曲輪の東側に二筋の堀切が掘られ主郭の備えが堅固となっている。二の郭は三ヶ所の曲輪から成り、中心になる曲輪が東西43米、南北が18米あり、両側に小曲輪を一段ずつ持っている。三の郭には4段の曲輪があり、中心になる曲輪が18米の正方形を成し、西側に三段の小曲輪が続き、四の郭えと通じている。四の郭は中心になる曲輪が東西24米、南北14米の長方形をなし、北西の端に大きな井戸を掘っている。井戸の直径は7米もあり、深さは長い年月、土・木の葉で埋まって不明である。都合5カ所の郭からこの城は成っており、それどれの曲輪に3米から5米の切岸を備え、切岸の下に犬走りが取巻き、互いに連絡がとれるようになっている。
その他、掘切り.のある箇所から南側と北側に堅堀が下がっている。東の端に東西200米、南北最大幅75米の馬場と呼ばれている平地がある。以上が田邊城の概要である。(情報提供:田邊九吾)

田邊城跡の続きを読む

白加美神社のさくら(小田中)

毎年さくらの花が咲いたら、ライトアップされます。
4.6shirakami2800.jpg
幻想的なさくらの花です。白加美神社は小田中に鎮座する天照大神主神とした社で、作陽誌には白神社と記されています。本殿は主神にふさわしく神明造となっており、他の形式の介在をまったく許さず、正統性をよく保っていることは、市内に数社ある神明造社殿のうちでは抜群である。社伝では、拝殿ともども文久2年4月の建造といわれています。また、白加美神社社殿随身門末社多賀神社社殿津山市重要文化財指定されています。

白加美神社のさくら(小田中)の続きを読む

ホルモンうどんご当地グルメ「B-1グランプリ」inYOKOTE

★2009.10月3日・4日「鳥取B級グルメフェスタ2009」で頑張りました。


やりましたB-1GP初出場で3位です。

(2009.09.19)

山陽放送にて10/4(日)14時よりVOICE21の特番として津山ホルモンうどん研究会B-1グランプリ初出場のドキュメント番組が放映されますので、ぜひご覧下さい。

▲神社におまいり

▲バス乗り場

▲ゲート

▲すごい行列

▲表彰台

▲準備中

▲準備中

▲会場

▲イベント

▲気合を入れるメンバー

▲開店前の会場

▲投票箱

▲地元の特産物も忘れずさすがです。

▲準備中

▲空港

▲駅

▲前夜の作戦会議

▲テレビニュース

▲新聞

▲決戦準備オーケー。

2009.9月11日(金) 壮行会での様子はこちら

みんなで応援しよう!★津山ホルモンうどん★

▲静岡・袋井市での様子(ホルモンうどん研究会の皆さん汗だくでをひたすら心を込めて作りました。)

2日間で165,000人の来場者数でした。津山ホルモンうどんにも行列ができ、おかげ様で完売いたしました。

▲神奈川の厚木市のイベント「フードバトル」での様子です。

▲秋田県横手市特設会場にて行われる

「第4回B級ご当地グルメの祭典!B1グランプリinYOKOTE」日本一決定戦のチラシです。

▲昨年の久留米市での開会式の様子です。

▲岡山国際サーキットでレースクィーンと記念撮影。

(レースクィーンもホルモンうどん食べていました)

▲アサヒビールのポスターです。

津山ホルモンうどんを応援くださっているアサヒビールさんによるB1グランプリ用に作られたポスターです。

「津山ホルモンうどんの経済効果県内8億円(市内4億円)」
 これまでの地道な活動がこんな大きな成果につながっているとはとても驚きです。
 実際にアンケートを集計しましたが、「美味しかった、満足している、他の店にも行ってみたい」といった回答が大変多く、データ入力も楽しくできましたわーい(嬉しい顔)
 経済効果算出にご協力下さいました立命館大学 杉山慎策先生、岡山経済研究所 大崎泰正常務理事様、大変ありがとうございました。

(ホルモンうどん研究会ブログより)

▲津山市制30周年記念に「津山Jリーグ公式戦初開催!」され、ファジアーノ岡山は湘南ベルマーレと対戦、惜しくも0―1で敗れ残念!

でも、場外に出展していた津山名物のホルモンうどんには行列ができていました。

▲静岡・袋井市での様子

2日間で165,000人の来場者数で完売致しました。

中山神社

▲中山神社本殿(国指定重要文化財)建造物大正3年4月17日指定

中山神社の沿革
  文武天皇慶雲四年(707)の創祀。貞観六年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で此の国の一宮とされ、永保元年(1081)には正一位の神階を授かる。
  平安時代の代表的説話である「今昔物語」には当社の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」では関西に於ける大社として安芸の厳島、備中の吉備津と共に肩を並べている。
  国家非常時(元寇など)には勅命により特に全国七ヶ国の一宮(武蔵・上野・伊豆・駿河・若狭・美作・肥後)を選び、国家安穏を祈願せしめ当社も其の中に選ばれて祭祀を厳修したとされる。
  建武中興破れて約四百年間は、美作国中戦乱の巷と化し、永正八年(1511)と天文二年(1533)の両度に祝融の厄に遭い宝物・古文書等悉く焼失したが、永禄二年(1559)に至り、出雲国尼子晴久が戦捷報賛の為、社殿を再建し歴代藩主の崇敬厚く、「一宮さま」と親しまれ、明治四年(1871)六月には、国幣中社に列格す。
  現在も、鍛金・冶工・採鑛等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。

中山神社の続きを読む

美作総社宮

   

▲美作總社宮は、社記に欽明天皇25年(およそ1400年前)、大巳貴命(大国主命)を字本館(西方約1キロ)にお祀りしたのが始まりと伝えられ、和銅6年(西暦713)備前国から6郡を割いて、はじめて美作国が置かれ、その翌年、国府がこの里に開庁されました。
その後、美作国司が大巳貴命を主祭神として、一宮中山神社、二宮高野神社の両大社をはじめ、美作65郷のすべての神祇を合祀して、總社宮と名づけ、その後およそ500年間歴代の国司は、みなこの御神意を奉じ、国内の政治を執り行いました。(2009.1月取材)

美作総社宮の続きを読む