嵯峨井堰・嵯峨用水【さら山地区】

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▲嵯峨井堰(2011.4.11)(2016年の嵯峨用水にかかる水車の記事)(嵯峨山のつつじ
 寛永9年(1632年)津山藩主森忠政が改修を命じたのが始まりとされています。
 工事は難航し、村のために自ら人身御供になった「お福」さんの悲しい伝説も残ります。
 昭和37年の台風で決壊し、改修工事に着手し昭和47年に完成して、現在に至ります。
 (全長240m、満水時保有水量4万t)

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▲2011.4.10                      ▲写真提供:さら山ビジョン研究会

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▲2011.4.10                      ▲2011.3.15

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▲2011.3.15

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○嵯峨用水(▲写真提供:さら山ビジョン研究会)
  嵯峨井堰を源に、本線は小桁まで14k。二宮分2kを含めて全長16kに及びます。網の目のように張り巡らせた支線を含めればゆうにその倍はあろうかという、津山では最長の用水路です。
この水路には3つのサイホンがあります。一つは吉井川の河底をくぐり、中島から二宮に至ります。
もう一つは、一方地内で皿川を潜るサイホンです。
 最後の一つは、一方地内で、JR津山線を潜っています。サイホンができるまでは、懸け樋で川を渡していました。この懸け樋は近平用水の下高倉で見ることができます。
嵯峨用水の取水口の嵯峨井堰から終着の小桁までの高低差は約20mです。この高低差を利用して14kの道のりを流す技術は凄いものだと思います。
嵯峨用水による耕作面積は、昭和27年:313ha、平成4年:115ha、平成14年:95ha、平成21年:84haと年々減少しています。一方・津山口・井口・大谷・横山地区では宅地化が進み、嵯峨用水は忘れ去られた物になっている感は否めません。 しかし、中島・平福・八出・小桁等の田園地帯を流れる嵯峨用水は美しく、素晴らしい田園景観を形作っており、人の長い長い営みに感動を覚えます。(村上)

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▲2011.3.15

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▲2011.4.10

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嵯峨井堰

この井堰が造られたのは森藩の時代(江戸時代初期)です。
古城東村・西村(現在の平福地区)の耕地整備に伴い、弓削の庄屋河原善右衛門に命じて工事をさせました。この時佐良神社の下から一方に流れていた皿川をまっすぐ吉井川に流す工事も行われました。
★嵯峨井堰の伝説「人柱になったお福」
嵯峨井堰の工事は難工事でした。何度造っても、小さな洪水で押し流され、失敗の連続で、村人はすっかり困り果てていました。すると誰からとはなく、これは吉井川の竜神の祟りのせいだという声があがり、乙女の人柱を捧げることになりました。人柱の人選でもめていた時、川向こうの院庄の「お福」という乙女が「何千人もの人たちのためなら人柱になりましよう」と申し出ました。お福を人柱に捧げてからは、工事も順調に進み、完成にこぎ着けました。村人たちは、井堰のほとりに小さな社を建てお福を祀りお祈りしました。(さら山ビジョン研究会)