神田 旧徳守神社跡地と徳守塚
神田 旧徳守神社跡地と徳守塚 (2015年5月2日取材)
その昔、徳守と言う名前の徳の高い人が、旧小田中村で行き倒れとなり、近隣の小原家の先祖が手厚く看病したが、看病の甲斐無く亡くなってしまった。そこで小原家が徳守塚として祠を作り埋葬したとされています。その場所のほど近く現在は宮脇町にある徳守神社が祭られました。この場所は現在の神田公会堂東側の竹藪の中で、森忠政が津山の総鎮守として現在の位置に移るまで祭られました。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
神田 旧徳守神社跡地と徳守塚 (2015年5月2日取材)
その昔、徳守と言う名前の徳の高い人が、旧小田中村で行き倒れとなり、近隣の小原家の先祖が手厚く看病したが、看病の甲斐無く亡くなってしまった。そこで小原家が徳守塚として祠を作り埋葬したとされています。その場所のほど近く現在は宮脇町にある徳守神社が祭られました。この場所は現在の神田公会堂東側の竹藪の中で、森忠政が津山の総鎮守として現在の位置に移るまで祭られました。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
高野山西にある白滝様は、地元の方からお聞きすると「この地区で、戦後いろんなことが起きて地元の人が集まって建てたと聞いている。今でも、5軒ほどで春と秋にみんなで集まってお祭りをしています。回り当番制で、当番の人がお掃除をして、掃除が終わったら、当番さんの家で親睦を図っています。」とのことでした。由緒沿革は定かではないそうです。( 2014年7月3日取材)
美作の丘附近の祠(取材2014年7月3日)これは個人がお祭りされているものだそうです。
高良神社 (押入)
『美作國神社資料』には「苫田郡高野村大字押入字押入字上押入 村社 高良神社 祭神 武内宿禰命 祭日 十月二十日 社殿 本殿 神楽殿 氏子数 四十五戸 境内神社 荒神社 祭神 素盞鳴命 由緒沿革 不詳」とあります。『作陽誌』には「高良大明神 一村氏神或いは本郷北村も聯加 祭神 武内大臣 本社 祭日 九月 末社 若宮大明神 境内に在」とあります。祭神の武内宿禰命と武内大臣は同じ神様です。この武内宿禰命は、景行天皇、成務天皇、仲衷天皇、応仁天皇、仁徳天皇の五天皇に仕えること在官二百四十余年の人です。
北山に、こあざ五輪谷といわれるところがあります。
ここには、くずれ落ちてうもれた五輪墓の墓石がたくさん出てきます。くわしく調べられていないので、どのくらいの数がうまっているのかわかりません。
今までに、出てきた墓石を一か所に積みあげてありますが、およそ百こ以上もあります。組みたてたら、りっぱな五輪墓となることはまちがいありません。
では、なぜこの地にこのような五輪石がたくさん出てくるのでしょうか。研究している人の話では、ここにお寺があったのだろうということです。五輪石は仏教の墓だからです。
石の大きさやかたちなどから考えて、室町時代から戦国時代のおわりまでのものではないかといわれています。さらに、くわしく調べると、文字のきざまれた石も発見することができるかもしれません。
川中山王
吉井川が林田の南端落合で加茂川と合流し、横山小桁と日上の間を南へ金屋の渡船場に於いて、廣戸川と合流する。この辺から南は川幅も広くなり、東岸は和気山、西岸は長岡の山脈によって好風景を展開し、やがて八足ドロと呼ばれる押淵所属の河中の巖上に、山王の祠が祀られている。その景観は河水の浸食作用によって、長岡山の軟弱部分が流され、強硬な部分が河中にのこされた自然の大巖が島となったものであり、河中に突兀として聳立した奇硝の上に天然の樹木が翠影をもって粧うて居るさまは全く奇観であって、川中山王と唱え徂来人の眼をたのしませたものである。山王祠は天安2年小桁部落にある極楽寺の鎮守として祀られたと伝えられ、明治5年日吉神社と改称し、押淵神社の摂社となった。石の鳥居から峻岨な石段をのぼっての景観又絶佳、両岸の翠峰、吉井川の清流と共に全く画の如きものである。『美作史跡名勝誌』
鶴亀神社(2014年9月19日取材)
大字坪井下の鶴坂に「鶴亀神社」という小さな祠があって瘡類に御利益があるとされている。
このお宮については、昔、鶴之亟と妹の亀という兄妹があった。妹の亀は世にも珍しい美貌の持ち主であった。
亀が18才の時であった。亀に懸想していた中間其は或る夜鶴之亟の不在を見すまして、亀をかつぎ出した。山道にさしかかった時、亀は中間の耳を噛みきったので、中間は怒って亀を殺してしまった。
やがて、口の中に男の耳をふくんだ亀の死体は発見された。そこで鶴之亟は、耳の無い男を妹の仇として仇討ちの旅に出た。
津山市林田755(若宮谷)。祭神 大巳貴命(オオナムチノミコト)(大国主命)。少彦名命(スクナヒコノミコト)。森忠政が鶴山城の鬼門の守護のため、元和6年(1620)3月23日大隅に遷座した。村民は氏神を失ったので、跡地に小祠を建てて若宮神社と称した。元禄年間(1697~1703)松平藩の時に大隅神社の旧号をとなえるようになった。末社 御先社、三宝荒神社。(取材:2014.6.15)
津山市玉琳 文久2年(1862)の地図に道祖神と道路の南側にある。
村境や道路の辻、橋畔、峠などに碑石や祠として祀り、外部から侵入しようとする邪悪な霊や疫病などを遮ったり防ぐ神として信仰された。旅行の安全の神でもあった。
(取材2014.6.15)
塞の神の長い民間信仰の歴史の過程によって機能は複雑となり、色々な附会された伝承が各地域で受け継がれ、また他の神々と習合され、幸せや金運を授けてく れる神というような現実的な人生の希望を託す信仰にもなっている。岡山県下の塞の神は祠が多く、中北部で、咳、耳、脚の神とされ、塞の神にはその他、縁結 びの神、和合神、性神、道路の神、交通安全の神などさまざまの信仰や形態がある。(2014年5月14日取材)