鶴坂神社(坪井下字鶴坂)

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鶴坂神社(大字坪井下字鶴坂1577番地)  2014年9月19日取材
 往古より久米郡北部の産土神として美作國百十二社の一つで、大井庄、中北下村三ッ高山の山上に鎮座し、吉村宮と高の村宮の二神が祀られていた。社殿も壮厳で霊験も顕著であったので元暦年間(1184-1185)梶原氏は此の社を崇敬し武達長久の祈願の為寄進する。それ以後天下が源氏の下におかれてからの國主・領主の崇敬が続き寄進奉幣は常に絶えなかったと云われている。当社恒例の大祭には苫田郡小田草の神輿も参加するのが例となっていて、毎年四月の牛の市もにぎやかであったということである。

 ところが、永享7(1435)年7月祭礼の日氏子間に喧嘩がおこり、死傷者が生じ鮮血で境内を汚した。死者は七人は宮の谷に葬り現在も「七人御免」や「七人御前」とかと呼んでいる。此の騒動で二神の御神体は髻山(幻往寺山)の方向に飛び去ってしまわれた。と言うことになっているが、不潔な地から清浄な地へ移し奉ることを相談し髻山の北に一祠うを建てた。そこで萬民は崇敬を怠らなかった。
 それから十年たった文安2(1445)年、岩屋城主であり、美作國の守護職である山名教清はこのお宮を崇敬して社殿を造営し、神鏡を奉納した。それから百七十年ばかりの後元和5(1619)年11月12日に火災にあい、社殿・神器・宝物を悉く焼失した。そこで郷民は再び社殿の移築を思いたち、元弘の昔、後醍醐天皇が隠岐への御遷幸ん際休息されたという鶴坂の地を選んで5年後の寛永元(1624)年9月16日現在の地におまつりしたものである。
 明治5年郷村社となり、其の時の氏子は坪井下村・坪井上村・宮部上村・宮部下村・中北下村・中北上村・南方中村・領家村・宮尾村・一色村の十ヶ村であったが、明治12年に宮尾村・領家村・一色村が分離して七ヶ村となった。明治39年4月には神饌幣帛料供進の指定があったが太平洋戦争敗戦後は社格、待遇等は一切なくなった。
 本社棟札は仮面汚緘爛して難読のものが大部分である。祭神が二柱であるので「本地毘沙門天吉村大明神」「本地薬師高村大明神」の二枚一組になっている。(文:久米町史より抜粋)

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鳥居をくぐると

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鳥居をくぐると大きな狛犬がいます。

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神社境内

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神社境内

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拝殿

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拝殿

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本殿

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本殿

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末社

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末社神