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取材記事内を検索ワード「街道」で検索した結果,236件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋巡り「木村家」

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木村家 木村治右衛門 勝南郡勝間田村 森藩~甲府領 完宿藩
大庄屋まで
 木村氏の出自は諸説ある。その一つは毛利氏の家臣龍門帯刀が帰農し、その子孫与左右衛門が木村を称したといわれるものである。
大庄屋として
 森藩の助成で、河原の多い勝間田の低地の大規模な開田工事が行われたとき、下山和十郎、木村治右衛門は、現在の新町、当時中河原と呼ばれた荒地を開発し、新田、井堰を造成した。その功績によって下山家は津山藩の本陣に、木村治右衛門は大庄屋に任命され、木村家は勝山藩、松江藩の本陣、脇本陣を勤めた。

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出雲街道 坪井宿

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坪井宿(別名「麦飯町」とも呼ぶ)
 坪井の町は、津山から西へ3里(12㎞)北は国道181号線、南は七森川に挟まれた静かな町で、今も昔をしのぶ家並みが残っています。
◎坪井宿場の成り立ち
 中世から戦乱により、天正7年(1579)河本城(構の城)が落城、続いて岩屋城も天正18年(1590)野火により廃城となり多くの武将・家臣団の帰農が始まり付近に居を構えた。これが集落の始まりではないかと言われている。集落は、久米川沿いの山根市場、後坪井、薬師堂一帯に作られたという。(故安藤貞郎氏が成人大学で受講記録より)
 また、元亀元年(1570)・承応3年(1654)・延宝元年(1673)・延宝8年(1680)・元禄15年(1702)・放映4年(1707)と美作地方に、暴風雨・大洪水が6回あったと記録されており、久米川も大洪水となり、山根市場、後坪井、薬師堂一帯が流失、その後住民は現在の坪井に移住したと伝えられている。

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令和元年 出雲街道津山城東むかし町祭り

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 2019年11月3日、今年も城東伝統的建造物群保存地区で、出雲街道津山城東むかし町祭りが執り行われました。このお祭りは、旧出雲街道を歩行者天国にし、「江戸時代にタイムスリップ」をコンセプトにした時代行列です。橋本町~東新町の区間では屋台や物産店、フリーマーケット等が出店されていて楽しんできました。また、「和っしょい!津山の総踊りが祭りをより一層盛り上げていました。

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2019年大隅神社の秋祭り

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 2019年10月20日に大隅神社・高野神社を皮切りに、津山まつりが始まりました。当日は、晴れときどき曇り空のお天気でしたが、大隅神社の秋の大祭も無事に終了しました。大隅神社では、今年初めてのお餅投げがあったり、インドネシアの若者や、美作大学の学生さん、また、多くの若者が初参加という事で和気あいあいでとても良い雰囲気でした。数人で参加していたインドネシアの若者に津山まつりについて聞くと、「お祭りは楽しいです。インドネシアにも沢山のお祭りがあって賑やかです。」と教えてくださいました。

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合祀されている大日如来とお薬師様(福井)

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 福井の小字本平集落の西側は、丘陵性の山地であり、それぞれの谷筋に山道がついている。集落北端の山麓山道を少し上がると、谷筋に南面して仏様を祀っている比較的新しいお堂(逗子)がある。標札に「勝南霊場第弐拾弐番 御本尊薬師如来」とはっきり書かれている。また、内部の板には、「金剛三昧院第七五番 札所」とある。
 これが、本平の住民がお参りしえいるいわゆる「おやくしさん」である。さらに、祭壇を見ると、光背をもった小さな薬師様の像と共に、高さ1m近い梵字の刻まれた石碑が並んで祀られている。
 石碑の正面は、珍しく全て梵字で書かれており、この石碑は、本格的な信仰対象の石仏様であることが分かる。
 側面に「延享元甲子天十月二八日」と刻まれている。延享元年は1744年であり、徳川吉宗の政治が行われていた江戸時代半ばのかなり古いものである。清瀧寺さんの解読で判明したとのことであるが、梵字の石仏は、「大日如来」の仏様であり、河面の旧真加部街道筋の大日如来とは類型を異にしている。

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出雲街道原の旧道・息継ぎの井戸

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出雲街道原の旧道・息継ぎの井戸(原)
 追分の三差路の約100m東で国道181号線と旧国道から分岐して北側の山沿いに残る、旧出雲街道は約900mあり、原地区の明谷入り口の塞の神で国道のため消えている。道中に「息継ぎの井戸」と呼ばれる古井戸がある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)

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美作の大庄屋巡り「岸家」

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岸家 岸新兵衛 西北条郡香々美中村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 岸氏の先祖は久米南町下籾にある竜王山城主、岸備前守氏秀であるという。氏秀は伯耆尾高城主山名氏重の二男で天文年間に尼子氏に属し城を築いたが、元禄元年浦上宗景は尼子氏の衰退を見て、竜王山城を攻撃し氏秀は戦死し落城した。後裔の新兵衛が森藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
 津山城主天守閣の主柱に用いた桂の巨材は、大町村の宗重から岸新兵衛によって切り出されたと伝えられているが、父三郎左衛門が寄進したともいわれる。切り株から成長した柱が現存する。新兵衛は藩命を受け慶安元年(1648)布原台地の開拓、それに伴う用水路作りに貢献した。また、伯耆往来の宿駅に着手し、円通寺の客殿を寄進したといわれている。延享4年(1747)三郎左衛門は年貢米の不足から多額の負債を負い大庄屋を免ぜられた。

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有木乢(西田辺)

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 中山の神に奉仕した里人有木氏が居住していたところ。屯倉、神饌1000米のルーツと言われている。江戸時代にここに伯耆街道を通した、新町宿場町、百乢、養野、倉吉、隣接の香々美村への主要連絡通路。牛馬の水飲み場であった古井戸や屋敷跡がある。(文:美作一宮の文化財地図より)

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石灯籠(西田辺)

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 津山市西田辺地内の鵜ノ羽川と県道が交差する地点で、民家の出入り口の県道脇に立派な灯篭が建立されている。灯篭の碑文内容を要約すると、安政年中(1854~1859)に田原安五郎が発起して津山より香々美中村までを道路改修し、そして、その遺志を継いで息子田原平五郎が明治4年に一宮から人形峠まで道路改修を始めたと刻字されている。

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