美作の大庄屋巡り「岸家」
岸家 岸新兵衛 西北条郡香々美中村 森藩~松平藩
大庄屋まで
岸氏の先祖は久米南町下籾にある竜王山城主、岸備前守氏秀であるという。氏秀は伯耆尾高城主山名氏重の二男で天文年間に尼子氏に属し城を築いたが、元禄元年浦上宗景は尼子氏の衰退を見て、竜王山城を攻撃し氏秀は戦死し落城した。後裔の新兵衛が森藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
津山城主天守閣の主柱に用いた桂の巨材は、大町村の宗重から岸新兵衛によって切り出されたと伝えられているが、父三郎左衛門が寄進したともいわれる。切り株から成長した柱が現存する。新兵衛は藩命を受け慶安元年(1648)布原台地の開拓、それに伴う用水路作りに貢献した。また、伯耆往来の宿駅に着手し、円通寺の客殿を寄進したといわれている。延享4年(1747)三郎左衛門は年貢米の不足から多額の負債を負い大庄屋を免ぜられた。
所在地
香々美中村は、香々美川左岸に位置し、中世香々美庄として栄えた。津山城下から一宮村、田辺村を経て香々美中村に入り北上して百乢を超えて養野村に至り、羽出村を北上し田代峠を経て倉吉に至る伯耆往来の宿場であった。
屋敷・墓地
伯耆往来の新町の町並にある広い屋敷地は中島氏が受け継ぎ、現在は屋敷地が残っている。
墓地は屋敷の南山麓にある。古い墓地は県道沿いにある。
子孫
子孫は津山市・鏡野町に居住している。(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)
岸家墓地(高宮惇さんに案内していただきました。)
新町宿場町 圓通寺
ここ新町は旧倉吉街道の宿場町です。森氏入封後、津山倉吉間の交通が開け、津山からの第一の宿場なので、馬の乗り継ぎ、荷物や人足の世話をする問屋や旅籠(はたご)もあり、街道は終日賑わいました。
昔は道の真ん中に水路が流れ古い町並みが連らなっていましたが、時代とともにその面影が薄れていきました。それでも、今の町並みから昔の宿場町の姿を感じることができます。
約四百年前の天正時代から踊り継がれていると伝えられる地蔵踊り(町指定無形文化財)も、毎年七月二十三日の直近の土曜日の夜、地蔵堂前で踊られます。
ここは香々美構(かまえ)大庄屋の屋敷跡です。最後の大庄屋であった中島衛(まもる)氏は明治初年の自由民権運動で知られています。
この家の大黒柱は、津山城天守の心柱となった大町宗重の大カツラの残木で作られていました。屋敷跡には樹齢三百年以上の銀モクセイやイチョウがあり、今も旺盛な生命力を誇っています。鏡野町(文:現地看板より)
新町宿場町(2019年8月20日撮影)