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取材記事内を検索ワード「博物館」で検索した結果,149件の記事が見つかりました。

百済市良右衛門 -作州鋳物の伝統五百七十年ー

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 司馬遼太郎の「街道をゆく」の第7巻は、古代の鉄生産をたずねて山陰路を歩いた記事をのせている。その帰途に四十曲峠を越えて作州に入り、苫田郡加茂町の黒木あたりのタタラ跡を見て回った。そこから岡山へ出る道、五十三号線の佐良山地区内のドライブ・インに立ち寄った。同行の鄭詔文さんがいつものくせで電話帳を借りて来てめくっているうち、津山市内に「百済姓」が四軒もあるのを発見、すぐ電話連絡をしたら、百済康氏の家だった。寄って欲しいと言われ、吹屋町に引き返して系図をみせてもらった。「いかにも風趣あり」鋳物伝来の暗示をしているようで、みごとな感じをうけた。と司馬遼太郎は書いている。このみごとな感じとは、渡来者の家系を誇りとしていることを指すと思う。いうまでもないが、新しい文化を日本にもたらしたのは多くの渡来者であった。

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津山の商家が伝えた文人画 ~広瀬台山と飯塚竹斎~

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 「津山郷土博物館 平成26年度特別展 津山の商家が伝えた文人画 ~広瀬台山と飯塚竹斎~(苅田家コレクションより)」が平成26年10月4日(土)~平成26年11月3日(月)まで、津山郷土博物館3階展示室で開かれました。
 苅田家は江戸時代から続く商家で、その邸宅は宝暦年間に建てられたと言われています。このたび苅田家からその邸宅を津山市に寄付されることになり、それに合わせ苅田家で所蔵していた古文書や書画類の多くが寄贈されることになりました。この書画類の中には、津山を代表する文人画家広瀬台山や飯塚竹斎の作品も数多く含まれています。
 この展覧会では、苅田家の書画類の中から広瀬台山と飯塚竹斎の文人画にスポットを当て、津山の商家が守り伝えてきた絵画コレクションの一部を紹介します。(文:津山郷土博物館チラシより)(2016年10月4日撮影)

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おもてなしイベント(文化センター会場)

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2017年7月22日のB'z津山公演のおもてなし会場のご案内です。
 「公演当日は、混雑が予想されますので、津山市内でご近所の方はなるべく、乗り合わせや徒歩で移動をお願いします。」との要望がありました。また、津山文化センター近くでも様々なイベントもありますので併せてご案内してみますね。

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出雲街道を歩く(河辺から津山城下)

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第110回 文化財めぐり 特別展「行列を組む武士たち」関連事業として、出雲街道を歩く(河辺から津山城下)が、2016年10月29日(10時20分~)津山郷土博物館主催であり参加して来ました。津山藩主の参勤交代には出雲街道が使われています。今回は河辺から津山城下までの出雲街道を歩いてきました。
ルート 河辺バス停前→河辺上之町→兼田橋→川﨑→玉琳→東松原→古林田→荒神曲り・大曲り→宮川大橋→京橋門跡「文:津山郷土博物館作成の当日配付資料より抜粋」

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【津山人】西東三鬼-俳句界の風雲児

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明治33(1900)年から昭和37(1962)年津山市南新座に生まれる。
 本名は齋藤敬直(さいとうけいちょく)。33歳の時、歯科医だった三鬼は患者達のすすめで俳句を始める。この時から使用したペンネームが「三鬼」で「サンキュー」をもじったものといわれている。
 35歳で代表作の「水枕ガバリと寒い海がある」を発表し新興俳句の有力な作家として認められたが、戦争一色となる社会情勢の中で、新興俳句は内容が革新的であることにより弾圧をうける。
 終戦後、俳句を再開した三鬼は、近代文学としての俳句の可能性を求め、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948年)「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。また、敗戦直後の混乱した時代に俳人が俳句で生計を立てていけるようにと現代俳句協会を創立。句集として「旗」、「空港」、「夜の桃」、「今日」、「変身」がある。
(掲載されている写真・文章等の著作権は津山瓦版または情報提供者に帰属し、一切の無断転載を禁じます。)

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【シリーズ美】講演会-6では「津山藩甲冑師三代」

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2016年12月11日(日)津山市立図書館視聴覚室において第14回おかやま県民文化祭地域フェスティバル「文化がまちに出る!プロジェクト in 津山」【シリーズ美】講演会-6で「津山藩甲冑師三代」と題し、石田謙司(全国歴史研究会)氏の講演に行って来ました。世の中の人魅了してやまない日本の甲冑。その美しさについて分りやすい解説を交えながら、知られざる具足師・津山藩明珍家(宗春・宗保・宗周)の事績について、日本人が見向きもしなかった日本の芸術は世界では非常に価値がある芸術品として買われた。など、江戸明珍家研究の第一人者が解説してくださいました。

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豊川稲荷神社(山下)

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 現在は、千代稲荷神社の境内に移されているこの社は以前、津山郷土博物館裏の城の石垣に貼りつくように建っていた。この豊川稲荷を勧請したのは、もと津山藩の家老であった山田(ようだ〉家といわれている。
山田家の後、美作製紙から昭和9年には旧津山市庁舎(現津山郷土博物館)と替わった。
昭和10年に水道疑獄が起き課長が議場で倒れてからは、屋敷の守り神である豊川|稲荷が手厚く祭相された。
所在:津山市山下82 千代稲荷神社内 祭神:豊武大明神、末廣大明神、白玉大明神 創建:不詳 祭礼:6/中旬
(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗より)(2016年11月30日撮影)

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県内で唯一展示!1500万年前のパレオパラドキシアの化石

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 パレオパラドキシアは哺乳類束柱目に分類される生物で、今から約1500万年前に生きていたと考えられています。当時の津山市は亜熱帯の温暖な気候で、浅瀬が広がる海でした。パレオパラドキシアはその海辺で、やわらかい海草などを食べていたと考えられています。
 束柱目の名前の由来はその臼歯にあります。よくみると鉛筆くらいの柱を束ねたような形をしています。 
津山郷土博物館で展示中のパレオパラドキシアの骨格標本は昭和57年9月津山市上田邑の工事現場で当時の中学3年生が発見しました。パレオパラドキシアの化石は日本とアメリカだけで発見されている珍しいものです。全身骨格標本は全国的にも珍しく、県内では津山郷土博物館だけが展示公開しています。(文:津山市HPより抜粋)(2016年10月16日撮影)

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津山・城西まるごと博物館フェア2016

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2016年10月2日(日)、津山市城西地域で「津山・城西まるごと博物館フェア2016」が開催されました。 この催しは、津山市の「城西地区の出雲街道沿線(西今町~宮脇町)を博物館」に見立て、地域の皆さんが手作りで開催するイベントで午前10時~午後3時まで行われました。当日は、アート&クラフト展、オープニングパレード、バルーンアート、城西こどもガイド、ミルクホール、まるごと合唱団、吹奏楽の演奏、城西お宝さがし、人力車、作州絣の実演と体験、キッズフリマ、屋台村など盛りだくさんの内容でした。

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第七回作州維新文庫所蔵展『収蔵作品展』新規収蔵品を主に

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2016年5月28日・29日(午前10時~午後3時)と津山市山下の旅館お多福で、幕末から明治にかけて作州で活躍した文人画家の展示があります。郷土の画家が描いた作品は見ごたえがありますよ。この機会にぜひどうぞ!
旅館「お多福」には、郷土の偉人・先人の遺墨や書簡など、多数の作品を収蔵する「作州維新文庫」があり、貴重な書画を中心として館内に展示保管されていま す。近年、「玉子かけごはん」で有名になった偉人岸田吟香の書や書簡、特に吟香が志士として活躍した青年時代をテーマとしての研究なども「作州維新文庫」 に収蔵されています。その他にも津山藩御抱絵師狩野家の人々の作品など多数が収蔵されています
旅館「お多福」(0868)23-0125 (旅館お多福所蔵、作州維新文庫」より)

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