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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標

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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標(2012年1月28日取材)
 自動車の通行を考えない昔は、山坂をいとわず、ほぼ直線的な最も近いところを道筋としていた。農山村地域に残されている旧道の山道は、たいていは上り下りの変化は大きいが、最短コースを考えた道筋であった。
 加茂谷や日本原を受けて、近長方面から大崎方面(播州街道)に抜ける南北の道や真加部・植月方面から田熊を経由して河辺方面(備前街道)に至る東西の道は、河面の下山地域を通過していた。とりわけ、勝田町真加部から勝央町を通って河辺・津山と結ぶ道は、津山真加部街道として、年貢米の輸送、商人の往来、寺社詣での主要道路として栄えていた。河面でちょうどこの接点に相当している場所が、下山地区の吉田家(吉田富之助さん宅)であった。江戸時代、吉田家は、萬屋の屋号をもち、茶店を営み繁盛していた。参詣にやって来た津山の殿様も、必ずこの萬屋に立ち寄り休憩して、威儀を正して清瀧寺なり広山八幡宮にお参りしたと言われている。当時は、河面の集落も吉田家周辺の丘陵上に多くあったということである。 

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福井 縁日に今も賑わう長谷稲荷(ながたにいなり)

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長谷稲荷(ながたにいなり)  2012年2月11日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)
 長谷稲荷は、福井の地域にありながら、福井と一部田熊の地元関係者以外は、あまり所在が知られていないのではないかと思われるが、今でも熱心な信仰のもと、縁日には多数の参詣者があり、賑わいを見せている。
 この稲荷様は、福井の集落から2~3kmかけ離れている津山市の東端部で、勝央工業団地の北側、すなわち、勝央町福吉と境を接する山地の山頂部に位置している。稲荷としては珍しく創建の由来や時期がはっきりし、集落とかけ離れたところに位置している意味もわかる数少ない神社である。要約して言うならば、江戸時代末期、福井村と福吉村との入会地紛争の結果創建された、いわば封建時代における民衆の苦難の歴史を秘めた神社なのである。

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因幡往来に隣接 山王権現を祀る日吉神社

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日吉神社は聞き伝えによると、滋賀県の日吉大社から持って帰ったと言われています。大国主命の弟をお祀りしているとのことでした。太田町内会の宮総代の下山清さんは「昔は廻り舞台もあったが、終戦後に壊したのではないかと思います。そして、参道脇にはワラ家があって賑やかでした。また、日吉神社はすもうの神様なので境内には土俵があり、よく相撲をしていました。」とお話くださいました。日吉神社には記録も紛失して残っておらず、しかも荒れ放題だったのを下山さん達皆で立て直されたそうです。日吉神社は、川崎太田、玉琳、飯綱、東野介代、野介代東分の各町内会が氏子だそうです。毎年7月13日には「お湯立て」があるそうです。2011年10月16日取材

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千人塚-三界萬霊塔-

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<最初の三界萬霊塔-千人塚->
 江戸時代、津山藩では、はじめは罪人の処刑場は城下町西はずれにある筋違橋の外側にあったが、その後処刑の場所は川辺河原又は兼田河原になった。兼田は城下町の東部の川崎村の一部で加茂川の西岸に位置し、この場所はまた出雲街道の渡し場でもあった。往来の多い所へ刑場を設けて、みせしめにするという意図があったためと思われる。
 川辺河原、兼田河原での処刑の記録は数多く残されている。
 多くの罪人が怨念を抱きながら生命を捨てた兼田河原に、いわゆる千人塚が建てられたのは寛政2年(1790年)で、高さ5尺余(1.5m)の塚の正面に「妙法 三界萬霊塔」、側面に願主としての「泰安寺剛誉、地蔵院大賢、本願寺神宗」、裏面に願文が刻まれている。願文の要旨は次のようである。「作州津山領の川崎村兼田に石碑を創建して有罪の亡魂を供養回向しようと欲する。時に寛政2年庚戌、2月吉日。」萬霊塔を創建して供養する。
この功徳をもってあまねく有罪の亡魂を導いて一切の満霊が同じく覚りの路を登らんことを願うものである。
 時の藩主は康哉で、願主の三寺は松平家とは特に関係が深く歴代藩主はしばしば参旨した。
 なお、その後も引き続いて明治初年までこの地で処刑が行われた。

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