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福井 縁日に今も賑わう長谷稲荷(ながたにいなり)

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長谷稲荷(ながたにいなり)  2012年2月11日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)
 長谷稲荷は、福井の地域にありながら、福井と一部田熊の地元関係者以外は、あまり所在が知られていないのではないかと思われるが、今でも熱心な信仰のもと、縁日には多数の参詣者があり、賑わいを見せている。
 この稲荷様は、福井の集落から2~3kmかけ離れている津山市の東端部で、勝央工業団地の北側、すなわち、勝央町福吉と境を接する山地の山頂部に位置している。稲荷としては珍しく創建の由来や時期がはっきりし、集落とかけ離れたところに位置している意味もわかる数少ない神社である。要約して言うならば、江戸時代末期、福井村と福吉村との入会地紛争の結果創建された、いわば封建時代における民衆の苦難の歴史を秘めた神社なのである。

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 入会地紛争とは、村むらの原野や山林など共有土地の境界争いのことである。美作では森藩滅亡後、領地の入り組んだ支配関係が生じたため、盛んに共有地を めぐっての入会紛争が起こった。百姓衆にとっては、入会地の山林や草刈場を確保することは、村の生活・生産を維持向上するには不可欠の大事であり、それだ け村人全体が懸命であったため、紛争の解決は容易ではなかった。
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参道を登る子等
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多くの人が集まっていました。
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 福井村と福吉村の入会地を巡る境界紛争は、双方の村が、常州土浦藩支配と播州龍野藩支配であったため、容易に決着をみなかった。そのため、ついに江戸表 公事(裁判ざた)に発展した。福井村からは、やむをえず代表として安藤重良兵衛(43歳)ほか与兵衛、仙五郎、右衛門、長蔵の五人が、江戸へ行くことに なった。後日の戸別割りのためか、一行は道中細々とした費用を克明に記録しながら、17日間かけて江戸に到着した。時は、ちょうど黒船往来騒ぎの起こった 嘉永六年(1853年)のことであった。勇んで白州での裁判に臨んだところ、白州では手鎖りまでかけられたりして、ことごとく不利に扱われ敗訴の気配が濃 厚となった。
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 一行は、落胆し焦燥苦慮(しょうそうくりょ)していたとき、宿の主人から八王子稲荷への参詣をすすめられた。なすすべのない一行は、八王子稲荷へ一心に祈願したところ、どういうわけか俄然(がぜん)裁判が有利に展開しだして、ついに勝訴と相成った。これに感謝し感激した一行は、八王子稲荷の分霊を勧請して祀ることを決意して帰国した。早速、村人にこの話をしたところ、みんなおかげを喜び、村全体の協力を得て、勝訴した村境の入会地山頂に、この長谷稲荷を創建したのであった。
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表参道はこのとおり
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 こうした歴史的な経過をたどって祀られた長谷稲荷は、福井村の感謝と信仰心に支えられ存続し、とくに戦前は近郷近在の人を集め、芝居小屋や露店ができ賑わったそうである。
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長谷稲荷様から見える景色は美しかった。


福井長谷王子稲荷神社由来
 争いの起こりの時代は不祥なるも、福井村と隣村との山林入会境界のことで両村の主張が異なり、奉行所のお白州で度々吟味を受けたるも双方譲らず、終に江戸公事(現在の東京最高裁)となり、福井村から代表として安藤重郎兵衛(43歳)を頭に、仙五郎、与兵衛、右衞門、辰蔵の5名が17日間掛かって江戸に到着、馬食町2丁目「桝屋」に宿を取ったのが嘉永6年(1853)正月15日であった。嘉永6年は、アメリカ東印度艦隊司令官ペリーが「サスハナ号」以下4隻を率いて、現在の神奈川県浦賀に来たり、幕府に交易を迫り徳川幕府を慌てさせた年であった。
 同年1月23日から6月23日までお白州は日数を要し、お白州では両村の代表に何故か手鎖がかけられた。お白州での吟味は福井村不利で敗訴濃厚となった。
 これを聞いた宿の主人が「王子稲荷様(現 東京都北区)に祈願すれば霊験あり。」と勧められ、一同直ちに斉戒沐浴して一心込めて祈願せしところ、不思議にも翌日のお白州から福井村に有利に転じ、終に勝訴を申し渡され、王子稲荷を現在地に勧請(神彿の分霊を移し祀ること)した。
 この裁きまでに要した費用は、小判7両と銭2貫49文
因に小判1両は、銭6貫180文で計算されたと記されあり。(文:安藤六衛)