取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「菩提寺」で検索した結果,88件の記事が見つかりました。

曹洞宗 成興寺(じょうこうじ)

mon0.jpg
曹洞宗 成興寺
 沿革
 そもそもの成興寺開基は、夢窓国師(京都天竜寺開山)と伝えられ、JR因美線美作河井駅から登る矢筈山上にありました。久しく廃絶していた寺を天文年中(1532~54)に、草苅加賀守衡継が矢筈山頂に居城を築く際、菩提寺として再興しました。(成興寺丸跡あり)
 天正12年(1584)草苅氏退城後、寺も廃址に帰しましたが、文禄3年(1594)に草苅氏の家臣で、小中原の土豪中西孫左衛門が、現在地に再興しました。元禄2年(1689)津山西寺町長安寺三世白善嶺雲和尚が曹洞宗に改めて開山となりました。現住職小倉玄照和尚は、第十三世。(2012年4月21日撮影)文:曹洞宗 成興寺(津山市加茂町小中原41)

曹洞宗 成興寺(じょうこうじ)の続きを読む

田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑)

kame5.jpg
田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑) 2012年1月7日取材
 中村周介は宇田川榕庵が津山藩医頃、医学と算聖の関 髙和髙弟青木正蔵より和算を修め田熊に帰り医業を継ぎ、また多数の和算の門人を持った。
 中でも甥嘉芽市は幼少より算用に通じ人々に「天童」といわれ、周介の教えに熱中、寝食を忘れて勉学、15、6歳で田熊流とさえいわれる和算の奥義を窮めることができた。(周介72才)
 文化4年、亀田代官が周介翁を訪ね「堀坂村の井堰が大雨毎に流れ、水の取り入れ口が洪水の進入路となり百姓達は、泣いて訴えます。よい設計はないでしょうか?」と頼まれました。
 周介は堀坂の墜道堀盤工事のことを嘉芽市に説明し、16才の天童少年に全部を頼り切った。周介と嘉芽市の設計施行の暗渠堀盤は独創適確な妙案であった。簡素な測量器、曲尺や夜は提灯利用、駆使し和算のうりょくの全力を絞り切って延長百米の大墜道を鎚とタガワで両側から掘って約1年で貫通させた。一当時は日本初の工法といわれたー

 周介亡き後嘉芽市は、天下に師を求め、江戸に上り幕府天文方御書物奉公、高橋作左衛門に師事し天文能史の奉行高橋作左衛門は、シーボルトの持つ「世界周航記」「ナポレオン戦記」ほしさに、国外出禁の伊能忠敬の蝦夷測量図と交換した。このことが間宮林蔵よりもれ作左衛門景保先生関係者は、極刑に及び門人嘉芽市も幕府の隠密をさけ、死地を脱す。年25歳帰省後は、「田熊算仙」といわれて二百余名の門人を持ち、また里正となり帯刀を許された。明治11年10月10日没す73歳。(文貴)下山陸治

田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑)の続きを読む

高福寺(阿波)

あじさい寺。
摩尼山高福寺は、京都市花園の妙心寺を本山とし、大日如来を本尊とする臨済宗寺院である。
初代津山城主忠政が、美作一八万六五〇〇石の領主として、慶長八年(一六〇三)に入封し、慶長九年(一六〇四)に、津山神戸にあった安国寺を津山小田中の地に移して、名称を本源寺に改め、天倫玄節大禅師を開山として森家の菩提寺と定めた。
その後、本源寺開山天倫玄節大禅師をこの地に勧請し、元和四年(一六一八)に摩尼山高福寺創建された。高福寺は創建開山禅師の因縁により、津山城主森家の鶴丸を寺の紋として使用することがゆるされている禅宗寺院である。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/aba_koufukuji/index.html

法源山 宗永寺(小田中)

600_1.jpg

 法源山宗永寺は往昔花園天皇の帰依建立となる京都妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派の末寺で、津山城主 森長継公(二代目藩主)の母堂の菩提寺なり。(明暦2年・1656年建立)。渓花院は森忠政公の息女で美濃の金山で生まれ、関民部成次に嫁し元和元年(1615年)21歳で津山に没す。西今町の裏の渓花院に葬られるも、その後明暦2年に宗永寺が建立される。他に長継一門の供養墓として、清泰院殿(忠政公側室)本光院殿(長継公息女・於鍋)、陽林院殿(長継公子息・頼母)、影幻院殿(長継公子息・吉之助)、梅雲院(長継公側室・頼母の母)の石塔を安置す。
古書には9間×12間を擁し城主の信仰篤く、作州の名刹に数えられしが、天保年間惜しくも焼失、現在の本堂は旧観音堂なれど、これは元文4年(1739年)万人講により建立す。その規模から推して旧本堂の壮大さが想像できる。その後、大正年間に檀信徒の再建熱願により観音講を設け、復元計画されたしも挫折して今日に至る。2009.9.19・20

https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/soueizi/index.html

津山郷土博物館

▲児島高徳像

▲宇田川玄随先生

寛政5年(1793)オランダ人内科医ヨハネス・デ・ゴルテルの西洋内科書を翻訳し、それを「西説内科撰要」として刊行した。これにより我が国近代内科学の礎となり、また、津山洋学の始祖ともなった。寛政9年(1797)江戸茅場町で没す。


▲ 輿(江戸時代)

津山藩主の松平家が江戸城登城や将軍家菩提寺参詣などに使用したもの、服装は束帯姿の公家装束である。 前後5人ずつの力者が轅(台の下部左右の棒)を小脇にかかえて移動した。行列には家臣・従者など約170人の供が従った。このような輿の使用は御三家、御 家門・国持など特別の大名のみに許されたものである。

▲津山郷土博物館全景

▲屋外展示場

▲津山郷土博物館入り口

昭和9年に落成した旧津山市庁舎を増改築し、昭和63年に開館した。

津山には、美作国府・国分寺や津山城が所在するなど、古代より政治・経済・文化の中心地として繁栄し、独特の文化がはぐくまれてきた。

▲津山産パレオパラドキシア骨格復元模型

新第三紀中新世(約1500万年前)に生息していた哺乳動 物。昭和57年9月、津山市上田邑の工事現場(村瀬馨氏所有地)で、当時中学3年生の水杉和弥君が発見した。日本とアメリカだけから化石として出土する珍 しい絶滅種で、その正体は謎につつまれているが、カバやバクのような姿だったと想像されている。当時の津山は「古瀬戸内」と呼ばれる亜熱帯性の海の島嶼部 で、パレオは樹木が生い茂る浜辺を歩いたり、泳いだりしていたと考えられる。

▲須恵器(子持ちはそう)

▲須恵器(器台ほか)


1~2階は歴史資料の展示をしています。

3階はミニ企画展(美術関係)

津山がまだ海の底だった頃から現代まで、一つの町にこんなに沢山の歴史がコンパクトに詰まっている町は全国でも珍しい。とのことでした。

弥生時代=沼遺跡・中宮1号墳・沼の住居跡

奈良時代=国府(総社・国分寺)

平安時代=二宮(高野神社の神門は県下で一番古い木造の建物)

鎌倉・室町時代=鎌倉仏教をはじめた法然さん。後醍醐天皇が出てきて鎌倉幕府を倒した。

松平藩の日記が全国で10指に入る位誇れる物です。

津山は空襲を受けていないので文書類(古文書類)が数多く残っています。


津山郷土博物館

所在地 津山市山下92
○問合せ/

TEL 0868-22-4567

開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)

休館日/月曜日・祝日の翌日・12月27日~1月4日
○入館料 ・一般210円(160円)
・高大生150円(120円
・小中生100円(80円)

※( )内は30名以上の団体料

▲陶棺(粘土を焼き固めて作った棺)

▲埴輪

▲弥生時代の出土品

▲弥生の里


▲久米の佐良山

美作や久米の佐良山さらさらに わが名は立てじ万代までに

「古今和歌集」巻第20

▲一遍聖絵

法然(1133-1212) 源空。法然は房号。平安時代の末、浄土宗を開いた僧。美作国久米郡稲岡荘(現久米南町誕生寺)に生まれる。俗姓は漆氏。幼くして父に死別し、比叡山延暦寺 などで修行し、専修念仏を確立する。晩年、旧仏教側の弾圧をうけ、一時土佐国に流罪となる。著書に「選択本願念仏集」がある。

▲横穴式石棺(復元)

▲古墳時代の出土品

▲化石

▲津山の弥生文化

▲郷土博物館裏にある箱式石棺

▲郷土博物館裏


https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/kyodo/index.html

津山城跡(鶴山公園)

▲裏門すぐの所にある菜の花の景色がきれいです。(2008春取材)

春には千本の桜が咲き乱れ、西日本随一の桜の名所として多くの人が花見に訪れる鶴山公園(津山城跡)。とくにぼんぼりに浮かぶ夜桜の美しさは幻想的です。また、新緑の頃の藤、ツツジ、秋の紅葉、雪景色など、四季を通じて訪れる人の目を楽しませてくれます。天守閣などの建物は明治7年に取り壊されましたが、本丸、二の丸、三の丸の石積みは、高さが45mもあり昔日の面影を今に伝えています。
津山城築城400年を記念して復元された「備中やぐら」が平成17年3月18日に公開となり、新しい名所となっています。

昭和38年9月28日国指定重要文化財(史跡)指定

>>2011年4月のさくらの様子はこちら。/ SakuLoveも登場する2011年4月10日の様子はこちら。
>>2010年3月30日の鶴山公園のさくらの様子はこちら。市内の桜スポットはこちらから

>>2009年11月~12月の紅葉はこちら。おすすめの紅葉スポットはこちらをご覧ください

津山城跡(鶴山公園)の続きを読む