田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑)

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田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑) 2012年1月7日取材
 中村周介は宇田川榕庵が津山藩医頃、医学と算聖の関 髙和髙弟青木正蔵より和算を修め田熊に帰り医業を継ぎ、また多数の和算の門人を持った。
 中でも甥嘉芽市は幼少より算用に通じ人々に「天童」といわれ、周介の教えに熱中、寝食を忘れて勉学、15、6歳で田熊流とさえいわれる和算の奥義を窮めることができた。(周介72才)
 文化4年、亀田代官が周介翁を訪ね「堀坂村の井堰が大雨毎に流れ、水の取り入れ口が洪水の進入路となり百姓達は、泣いて訴えます。よい設計はないでしょうか?」と頼まれました。
 周介は堀坂の墜道堀盤工事のことを嘉芽市に説明し、16才の天童少年に全部を頼り切った。周介と嘉芽市の設計施行の暗渠堀盤は独創適確な妙案であった。簡素な測量器、曲尺や夜は提灯利用、駆使し和算のうりょくの全力を絞り切って延長百米の大墜道を鎚とタガワで両側から掘って約1年で貫通させた。一当時は日本初の工法といわれたー

 周介亡き後嘉芽市は、天下に師を求め、江戸に上り幕府天文方御書物奉公、高橋作左衛門に師事し天文能史の奉行高橋作左衛門は、シーボルトの持つ「世界周航記」「ナポレオン戦記」ほしさに、国外出禁の伊能忠敬の蝦夷測量図と交換した。このことが間宮林蔵よりもれ作左衛門景保先生関係者は、極刑に及び門人嘉芽市も幕府の隠密をさけ、死地を脱す。年25歳帰省後は、「田熊算仙」といわれて二百余名の門人を持ち、また里正となり帯刀を許された。明治11年10月10日没す73歳。(文貴)下山陸治

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高台にある中村一族の墓地より那岐山を望む    中村嘉芽市の墓
清瀧寺下に植月線三叉路があり、信号機が設置されている。そこを少し進むと、北に上って丸山・近長(ちかなが)方面に抜ける市道が通っている。この市道に面した丘陵上に、中村一族の墓があり、作州の算仙(さんせん)と言われて名高い、中村周介(しゅうすけ)・中村嘉芽市(かめいち)が祀られている。とくに、中村嘉芽市のお墓は、両横・裏面と三面一杯に漢文が刻んである墓碑となっている。
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三面一杯に漢文が刻んである墓碑
(嘉芽市の死後、門人や有志によって建立された顕彰墓碑)
田熊の中村家は、本来医師の家系であり、家業を継ぐため中村周介(1750~1825年)は、安永7年(1778年)に京へ上った。京では、後藤秀四郎の門に入って医術を学び、その傍ら、関流の和算家青井正蔵のもとで、和算を学び、学業成って師より免許及び算者系譜二巻を授けられるほどになった。
当時、同じ土屋藩(茨城県土浦)の配下にあった堀坂は、加茂川用水口からの洪水に悩まされていた。近長にいた土屋藩代官、亀田清助より、こお難問解決の相談を受けた周介は、岩山を利用した暗渠用水を設ける案を思いついた。老齢を考え、工事の測量・設計全てを、17歳になった甥の嘉芽市に託した。
中村嘉芽市(1806~1878年)は、天童の誉れ高く、よく勉学に励み、周介から奥義(おうぎ)を授かるまでになっていた。周介が助言し、嘉芽市が設計・施工した岩山を両側からくり抜く工事は、藩と地元農民の全面協力により行われた。

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中村周介(右)と嘉芽市(左)のお墓


 「作州路で棒を振るな」は、旧幕時代、盛んであった竹内流棒術を背景とした言葉だが、今一つ「作州で和算を語るな」は、算仙の別名を持つ和算の大家、中村周介・嘉芽市の存在が、広く聞こえていた証と言われている。とくに、幕末には、周介やその後を継いだ嘉芽市について学ぶ者百数十人に及び、田熊の近在は、老若男女を問わず、和算に長じ計算に熟していたので、「田熊の算者」の言葉が生まれたとのことである。


 郷土に帰って医家を継ぎながら、天明4年(1784年)には、やはり閑流の木村忠雄にも学び、和算の術に精通した。やがて、算医書、天文、暦など数多くの著書をまとめ、甥の嘉芽市を初め、子弟の教育にも当たった。また、とくに文人墨客風の周介は、詩歌や絵画にも親しみ、津山藩絵師、狩野如林に学んで、絵にも優れた才能を発揮した。その作品事例として、菩提寺である清瀧寺の本堂天井に、鏡板蝋画・鳳凰図などを見ることが出来る。



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加茂川用水口                     今も利用されている堀坂暗渠用水口
延長約100m
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加茂川用水口から山をくぐって反対側の堀坂暗渠用水口を案内していただきました。


 延長約100mの大暗渠工事は「穿口を切ること方6尺、石工を用いること3990人、役夫2938人」もって、文政5年(1822年)約1年がかりで完成した。両方からの岩盤をくり抜いた誤差は、ごくわずかであった。嘉芽市は、その後江戸に上がってさらに勉学に励み、碑文に見られる通り、田熊の算仙として名を馳せた。
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今でも利用されています。写真右は、大水が出たら、堰を開けて上に逆流させていたとのことです。
(文:『広野の歴史散歩』宮澤靖彦編著より)