八十三番札所明谷の堂(中北上)
八十三番札所明谷の堂(明谷)久米苫田八十八ヵ所霊場 本尊は地蔵菩薩。
左側が 八十三番札所明谷の堂です。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
八十三番札所明谷の堂(明谷)久米苫田八十八ヵ所霊場 本尊は地蔵菩薩。
左側が 八十三番札所明谷の堂です。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
関様・牛神様(明谷)
関様は美保神社(恵比寿様)の福の神、田の虫よけの神、牛神様は家畜の守り神。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
原の供養碑・札場跡(原)
原の出雲街道旧道にあり、「間務阿弥陀仏三十一カ遍供養塔」と「天保三年吉祥日坪井上村中組構中」と刻まれている。札場跡は江戸時代に藩の奉行所から村人に知らせる場所があった所。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
山根の長者屋敷跡と貞清五輪の墓(山根)
天文の頃、貞清四郎左衛門が山根市場に居住しており、山根の長者と呼ばれていた。今も屋敷跡に古井戸がある。この屋敷跡の東の国道を超えた田の中に五輪塔がある。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
坪井上立野の谷にあり黄銅鉱を産出。文久元年(1861)の頃採掘を始めた。明治30年頃から大正にかけては一時大盛況となったが、大正末に休山。昭和10年頃、昭和鉱山KKが再度始めたが終戦後銅価の暴落で閉山。すぐ後ろの山が茶臼山古墳である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
妙見宮・地神様(明谷)
妙見宮は北極星を祀った北辰妙見宮で無病息災、家内安全、五穀豊穣を司る神。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
鶴坂の上り口にあり、寺城出身の力士の塚である。弘化4年(1847)の大坂番付に記載されている。本名は太田斉七といい、墓が寺城池の下にある。斉七塚のすぐ上は墓地になっており、疣神社、六体地蔵、供養碑がある。さらに進むと鶴坂の頂上付近の中国自動車道を横断する陸橋を渡るとすぐ左の小祠が鶴亀神社である。そばに三星城の家臣鶴之丞が妹亀の仇を討とうとしたが返り討ちに遭ったという哀話の説明板がある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
北酒造場跡(岩屋)
安政5年(1858)創業。「清酒岩滝」は岩屋城の山王宮の岩滝より命名。昭和5年転業まで70有余年地域の人々に愛された。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
坪井金毘羅宮石灯籠(坪井)
安政2年(1855)寄進。灯籠には「村中安全」と彫られている。金毘羅宮は称念寺の南側の西山(古墳)」の頂上にある。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年5月30日撮影)
鶴坂頂上にあり、峠越えにふさわしい休憩所であった。「出雲街道 鶴坂」の石柱がある。鶴坂は津山から平坦な道が続く出雲街道の中では最初の峠で難所であった。かつてはこの峠に至る8本の小道があり、当時はこの峠が地域においても交通上重要な位置を占めていたようである。大井西村役場もあった所である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)