鶴亀神社(津山市久米)

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鶴亀神社(2014年9月19日取材)
 大字坪井下の鶴坂に「鶴亀神社」という小さな祠があって瘡類に御利益があるとされている。

このお宮については、昔、鶴之亟と妹の亀という兄妹があった。妹の亀は世にも珍しい美貌の持ち主であった。
 亀が18才の時であった。亀に懸想していた中間其は或る夜鶴之亟の不在を見すまして、亀をかつぎ出した。山道にさしかかった時、亀は中間の耳を噛みきったので、中間は怒って亀を殺してしまった。
 やがて、口の中に男の耳をふくんだ亀の死体は発見された。そこで鶴之亟は、耳の無い男を妹の仇として仇討ちの旅に出た。

  道で行き逢った一連の人の声高に話す話の中に「耳無しの男の強かった」という言葉が鶴之亟の耳にとまり、よくよく聞きただして見ると、昨日坪井の七森神社 (鶴坂から直線距離で八百メートルばかり南にあるお宮)の相撲に飛入りの耳の無い男の飛び抜けて強かった話をしていたのであることがわかり、更にその耳の無い男の人相などをききだして妹の仇にちがいないことを知り、鶴坂で仇討ちとなったが鶴之亟は返り討ちとなって果てた。
 ところの人は此の兄と妹をあはれんで小さな祠を造って鶴亀神社として二人を祀り、兄が返り討ちになったのが9月18日であったので此の日をお祭りの日と定めてお祭りをすることとなった。
  俚謡に「久世を夜で出て目木乢越えて坪井鶴坂歌で越す」というのがあるが、これは「歌で越す」ではなくて「討たで越す」が本当で、鶴坂以東の、特に坪井の 宿場町の人は鶴之亟が立派に仇討ちをして降って来ることを期待していたのに、全くその期待が裏切られて此の俚謡となったのだ。
 とする説があり又、勝負は相討ちとなって二人共死んだ。とする説もあり、更に又、勝った中間は鶴之亟に同情したその土地の人達によって殺されたとも言われており、又、鶴之亟という名前もたしかではなく、唯「鶴」とのみつたわっていて女だったとも言われている。

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鶴坂 
 坪井の宿場を西に出ると、間もなく出雲街道は坂道となり、やがて小さな乢(峠)を越す。これが「久世を夜で出て目木乢越えて坪井鶴坂歌で越す」と謡われた鶴坂である。
  鶴坂の名は、昔この峠の頂上に老松があり、これに二羽の鶴が舞いおりたことに由来するという。現在は、中国自動車道が横切っているため往時の面影は偲びに くくなっているが、平坦な道の続く町内の出雲街道の中では小さいながらも唯一の峠であった。また、かつてはこの峠に至る八本の小道(大谷道・宮道・宮後 道・古道・地蔵堂畝道・中縄手道・松ヶ坪坂・イモジカ峠道)が縦横に走っていたとの記録もあり、当時この峠が地域においても交通上重要な位置を占めていた ことをうかがうことができる。

 坂の坪井側の上り口付近には、亀の形に刻んだ台石の上に立つ塚がある。この塚は「餝磨津斉七塚」といい、現在の久米町坪井下出身で、当時某藩のお抱え力 士であったと伝えられる。太田斉七(餝磨津は力士名)の塚であると伝えられている。さらに、坂の頂上付近には、鶴亀神社という小祠がある。祠には仇討ちに 纏わる哀話があり、伝説となって今に伝えられている。

(文:久米町史下巻より抜粋)