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取材記事内をタグ「城跡」で検索した結果,25件の記事が見つかりました。

若宮神社と別所城(上高倉字城山)

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 西谷上集落の北端の林の中に若宮神社が祀られている。
 御神体は木像の女神で文武両道の成就は勿論、農工商業の繁盛にも霊験あらたかな神様として崇められ、氏子は西谷上組合を中心に西谷下・深山の一部である。
 江戸時代には現位置東の田の中(字石田)にあった社を別所城跡地(字城山)に移して社屋・籠殿を完備し、大祭には多くの参拝者を集めていたと伝えられているが、明治40年代に村内の神社を高倉神社に合祀した際、若宮神社も高倉神社の境内に遷座し高倉神社の一社として祀られた。

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遂に完成、津山城模擬天守閣!

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2013年8月2日(金) ついに完成した津山城「模擬天守閣」。このプロジェクトは、津山JCが美作国建国1300年プロジェクトとして復元したものです。その完成記念式典が8月2日にあり、多くの人がお祝いしました。模擬天守閣は高さが実物の約半分なのですが、発泡スチロールを使って制作されたものです。この制作には多くの市民ボランティアさんが加わって完成となったものです。市民の皆さん、8月18日まで展示してあるので是非ご覧になってくださいね。またこれから24時間体制で見張りをするJCのみなさん、お疲れの出ないように無事にプロジェクトが終わることをお祈りしております。

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2013近畿・中国・四国 B-1グランプリ in 津山

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 2013近畿・中国・四国 B-1グランプリin津山が5月25日・26日に執り行われました。両日ともうだるような暑さの中25日(土)23,000人、26日(日)48,000人で合計71,000人の来場者がありました。8府県16団体が出展し、ゲスト参加は八戸せんべい汁研究所(青森県)や浪江焼麺太国(福島県)でした。本当に遠い所から参加くださった皆様に感謝です。

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津山城(鶴山公園)の藤棚

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2013年5月3日午後に思いついて津山城(鶴山公園)へ上がってきました。上がりがけには小雨がぱらついて来て、大慌てで写真だけ取ってきました。淡い色の藤の花がとても綺麗でした。昨年は見ていられないほど少ない花でしたが、今年は多くの花がついていましたよ。昨年の様子はこちら 2010年の様子

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福井 源平の古戦場を語る新宮城址

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 福井の南部、土居の公会堂付近に、真宮神社の鳥居や花壇があり、その地点より山手へしばらく上がると、海抜204mの平坦な山頂部に達する。ここに福井と新田にまたがって古い城跡があり、新宮城跡と言われている。展望のきく南側は、広戸川に面して急峻な岩肌が切り立っており、城としては天然の要塞を思わせるものがある。
 山頂の平坦地は、南北およそ40間(約70m)・東西180間(約200m)の広さがあり、中間に長さ40間余の土塁らしきものが残されている。かっては、土塁の西側に建物の本拠があり、広い東側は、城郭内の広場や城兵糧食の耕地であったと言われている。この新宮城跡については、源平のころからの古い歴史をもつだけに詳細不明で、城主についても異説があり、名称すら新宮か真宮か判然としない面があり「東作誌」等でも謎に包まれた記述がされている。
 しかし一般にはあまり知られていないが、明治末年に書かれた新宮城の詳しい伝記本が存在している。安藤十朗氏著「霊夢 神宮山木下伝記」(和綴じ全5巻付録1巻 福井 安藤六衛氏蔵)がそれである。
 平安後期に平氏一門の木下氏が拠点として築城した様子から、源平合戦で滅亡するまでの経過を、年代をふまえて克明に記録した伝記である。2012.6~12月取材

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津山城(鶴山公園)のつつじと藤の花

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2012年5月6日の津山城(鶴山公園)のつつじです。今年は花のつきがいま少しといったところです。でも色とりどりのつつじが綺麗でした。藤の花はさっぱり咲いていませんでした。少しがっかり!この日はお天気も良くてゆっくりベンチで友人と語り合いました。緑が一杯の津山城(鶴山公園)本丸から見る津山市内はまたいいものです。みなさんもいかがですか?(過去の取材

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田熊 南北朝動乱時代の山城 下木の岩黒城址

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 ▲田熊(たのくま)南北朝動乱時代の山城 下木(したぎ)の岩黒城址(いわくろじょうし)
 広戸川を渡り、下木の集落から東の山手に上ると、高い所に公会堂がある。この公会堂の上の平坦な丘陵地が、岩黒城址(いわくろじょうし)と言われている。
 今は、全く畠となっているが、ここからは、田熊や野田(勝北)の水田地帯や日本原高原の景色が一望できる。一方、田熊の水田地帯から城址を眺めると、平地に突き出た山裾の丘陵を利用した山城であることがよく分かる。
岩黒城址については、美作古城史(三)に次の記述がある。
 「津山市田熊(元勝田郡広野村)に岩黒城址があり。井上蔵人(いのうえくらんど)の居跡と伝えられ、東作誌には、古城 岩黒城 城主井上氏今は百姓持林となる。堀切の跡纔(さい=わずかに)見ゆ 少し切りならしたる跡ある而巳(のみ)なり 云々と載せてあり、古城麓に現存する井上氏がこの城の関係者として伝えられている。」(2012.1.9取材)

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