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安藤幸夫さん(刀銘 広清)県重要無形文化財

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 安藤幸夫(刀銘広清)さんは、昭和22年2月4日津山市福井生まれ、東京でコック(札幌オリンピックにも関わる)をしながら、昭和40年鎌倉市の研師西村勝政に入門し砥の勉強をしていたそうです。子どもの頃から刀が好きだったので砥をやったが、終始一貫して出来るということで、昭和47年に刀匠(刀匠 小林康宏氏に師事。8年間の修業を経て文化庁から刀匠の認可を受けた。56年郷里の津山に帰り、本格的に作刀を始めたのだそうです。同57年には新作名刀展に初入選する。以後、連続して入選する。

<以下の文章は津山市広報から抜粋>
 日本刀は月に2本しか作ることが許されていませんが、その少ない機会の中で、様々な鉄を使って、研究を重ねています。特に江戸時代以前の鉄砲や釘などの古鉄を探し、鋼に仕立て直し材料にしています。大変手間が掛かり、ほかの刀匠は嫌がりますが、この手間こそが現代に名刀を蘇らせるのだと思っています。
技術というものは、いったん失われてしまうと、蘇らせるのに百年は掛かるものです。ほんの一瞬のことで次の世代に伝統が伝わらなくなってしまう。そんな失われた幻の古刀を自分の手で再現したい。

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〔谷崎潤一郎〕今田屋旅館へ移る。(速日神社前)

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▲ここで(速日神社)谷崎潤一郎さんが家族で写真を撮っている。
現在この川では鯉が泳いでいて、下流では今でもシジミが採れるそうです。(2012.5.10取材)


昭和20年 12月29日 城内の今田屋旅館へ移る。
昭和21年(1946) 1月 1日 渡辺明氏が夥しい北海道の土産を持ってくる。 
1月 30日 津山の闇市に行き、今津屋橋南で1パイ5円のぜんざいを食べる。   
3月 6日 刑部に疎開していた内田巌画伯が逗留し、谷崎の肖像画を描く。
3月16日 京都へ引き上げるために上洛する。
5月 末 水島宅で送別会をしてもらい、家族ともども京都へ帰る。
8月初め 再び勝山に来て今田屋旅館で「細雪下巻」執筆、荷物を整理して勝山を離れる。


小野はるさんと何かあったらしく、今田ツネさんの所(もと今田屋旅館)に引っ越した。(2階が8畳3間と6畳6間を全部借り切って執筆していた。)
(文:郷土博物館)

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〔谷崎潤一郎〕水島呉服店さんとのエピソード

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 水島節子さんからお聞きしました。「勝山には、こっくりさんに聞いてから来たそうですよ。終戦前に来られたときは着物を着流しで歩いていたので当時は珍しく、また、おいしい物が好きな方だったそうです。」
 「ここからピアノの音が聞こえたので、谷崎さんが尋ねて来られたのが最初で、その後、姑がご馳走を作っておもてなしをしていたようです。また、谷崎さんはここの2階でも時々執筆していたようで、子どもが変なおじさんが来たら、だまらんといけん!と言っていたそうです。」今は息子さんの代で水島呉服は止めて司法書士事務所になっています。


 節子さんの姑で故水島芳子さんが谷崎一家を助けたことは有名です。
「水島家に谷崎さんのお気に入りの中之庄谷美智子さんが居たことも大きな要因ですが、水島芳子さんという心の大きい人が居なかったら勝山での谷崎家は随分困ったには違いない。」と見せていただいた雑誌コピーに書かれてあった。
食料だけではなく、水島芳子さんの太っ腹な大らかさが谷崎家に貢献したのです。(2012.5.13取材) 谷崎潤一郎とは


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〔谷崎潤一郎〕小野はるさんの離れに落ち着く

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昭和20年(1945) 5月15日 新聞記者で月田出身の岡成志の勧めで津山市八子の松平別邸に疎開。この間、岡氏は死去する。
6月 3日 岡未亡人から勝山に貸間があると知らせてくる。
6月 4日 土井武氏の案内で新町の小野はる氏の離れに決める。
7月 7日 勝山に着き、新町の小野家離れに谷崎夫婦と娘が入る。
後に妻松子の妹2人、松子の従兄弟らも疎開して、近くの呉服屋2階に住む。「細雪」の執筆に取り組む。原稿の写しを野崎益子女史が頼まれた。
食料の調達には福谷の須田伸治郎氏の世話になる。
中町の呉服店水島喜八郎氏と深く交流した。
下町の醤油業河本はな氏とも交際した。
8月13日 永井荷風が谷崎を訪ねてくる。15日には帰る。(疎開日記より)


旦酒店さんから伺ったお話

 勝山は水の綺麗なところで、昔は井戸水が綺麗だったので豆腐と酒を造っていました。酒屋も2軒ありましたが、今は辻さん1軒だけとなりました。それに宿も9軒ありましたが、今は寝泊りだけで2軒しかないのです。
 谷崎さんが勝山に来られたときの姿は、ボロボロの汚い着物だった。それに、沢山の原稿の入った「こおり」を大八車に積んできて近所の旅館の土蔵を借りて荷物を入れたとのこと。また、谷崎さんは金が入ったら大盤振る舞いをしていたそうで、普段は午前中執筆、午後は奥さんと川沿いを散策していたそうです。
 エピソード:小学校の教師になるために勉強していた野崎ますこさんは書が上手だったそうで、谷崎さんの書生を務めることになり、テストを受けたのですが、そのテストがユニークだったそうです。なんでも、奥さんとて書斎には上げないのですが、野崎さんを先に上らせ下からみて、足袋の白さ(足が綺麗かどうか)を見ていたそうです。勿論、野崎さんは無事合格して書生をつとめたそうです。(2012.5.10取材)


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谷崎潤一郎と勝山の町

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都わすれの記(2012.5.10取材)
勝山町は旭川の上流なる山峡にありて小京都の名ありといふ、まことは京に比すべくもあらねど山近くして保津川に似たる急流の激するけしきの嵐峡あたりの面影なきにしもあらざればしか云ふにや、街にも清き小川ひとすぢ流れたり、われらは休業中の料理屋の離れ座敷一棟を借りて住む、二階の六畳二間を書斎にあてゝ故帝鴻銘翁が短冊に書したる有 人對 月數 歸期 の七字を柱に懸けたるは、此の句恰も今のわが身にふさはしければなり、あゝわれ齢六十路におよびてかゝる邊陬に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし
 なつかしき都の春の夢さめて
  空につれなき有明の月
 まどの戸をあくれば入り来やまざとの
  人に馴れたる雀うぐひす

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津山人 【陶芸家】天狗寺 陶白人氏

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 天狗寺 陶白人(てんぐうじ とうはくじん)さんは、岡山県苫田郡加茂町出身の陶芸家で、( 岡山県津山市にある山、天狗寺山が名前の由来だそうです。)
 天狗寺さんは、「美作地方(津山市綾部の土)の土単味でつくる」窖窯研究・美作土の造形研究38年だそうです。また絵画(洋画、日本画)、篆刻・彫刻・書・山水画・陶芸品の制作など多才な方で、いつもニコニコ笑顔が印象的な方です。お邪魔したときは、窯出し後で、焼きあがった作品がずらりと並んでいました。取材2012年11月6日

天狗寺 陶白人さんのプロフィール
2012 沖縄県 那覇市立壺屋焼物博物館企画個展
2011 岡山県 奈義町現代美術館企画個展
    鳥取県 重要文化財石谷家企画個展
2008 第25回 茶の湯の造形展
2005 第3回現代茶陶展
    第22回 茶の湯の造形展
    2005大滝村北海道陶芸展
    第17回 抹茶茶碗コンテスト『奨励賞』受賞
2004 第16回 織部の心作陶展
2003 第15回 織部の心作陶展
    第20回 茶の湯の造形展
2001 世界工芸コンペテション金沢
    第13回 織部の心作陶展
    金沢わんon大賞展
1998 第2回 益子陶芸展
1997 第8回 使ってみたい北の菓子器展 『大賞』受賞
    岡山県美術展 『地域奨励賞』受賞
    国際色絵陶磁器フェア79九谷
1996 第5回 バレンタイン美術展 『バレンタイン賞』受賞
    第7回 使ってみたい北の菓子器展
1995 現代茶陶展
1991 中国ガラスアート展1991
1990 第2回 しんわ美術展 『努力賞』受賞
1989 第18回 長三賞陶芸展
    第1回 しんわ美術展 『特別賞』受賞
1985 第2回 茶の湯の造形展
1980 天狗寺 陶白人の号を賜る
1974 天狗寺窯開窯Tenguuji Factory Of Artで働く
1972 藤川デザイン学院を卒業
1968 津山工業高等学校を卒業
1951 誕生日: 1951年2月16日

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保田扶佐子さん(スペイン・津山市押入)

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保田扶佐子さん 《プロフィール》抽象画家・版画家

1942年10月20日。岡山県津山市に生まれる。1981年よりスペイン・バルセロナを拠点に活動する。個展、グループ展多数。絵画、版画のほか、多くのアーティストブックで画家、詩人、作曲家たちと共同制作している。現在はバルセロナと日本を往復しながら活動中。
保田扶佐子美術館/2010/2011/2012/ 

沼の弥生住居跡群です。

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沼住居跡のさくら、 メチャ綺麗なもみじ 弥生の里文化財センター
津山市沼、津山盆地が見渡せる丘の上にある弥生時代の集落跡。竪穴式住居・高床式倉庫・作業場があったとされ、現在ではそのうち、竪穴式住居1棟と高床式倉庫1棟が復元されています。隣接の津山弥生の里文化財センター(入場無料)で発掘成果などを見学できます。(2012年7月31日)


沼弥生住居址群《昭和31年7月4日津山市指定記念物(史跡)》
 昭和27年、最初の発掘調査が行われました。調査は、その後数次に亘って行われ、円形・隅丸形などの竪穴式住居址5棟、長方形竪穴住居状遺構1棟、高床倉庫址3棟、そして住居址群と倉庫址群を分断する溝状遺構などが検出されました。このうち最大のA竪穴住居址は、火災により廃棄されたもので建築部材が炭化して残っていました。
出土遺物には、中・後期の弥生式土器片、稲の穂を刈り取るための石包丁、手斧(ちょうな)とされる扁平片刃石斧、たたき石などがあります。
沼弥生住居址群復元住居(津山市沼597-1)文:「津山市の文化財」より抜粋

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現代の日本にいて欲しい。森長直!

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約300年前、東京・中野に広大な犬小屋があった。
莫大な経済的負担とともに、その造営にあたらされた津山藩・森家の人々が、逆境を乗りこえ、崩壊から再興へと生き抜いた姿を、新たな視点から描く。
十八万六千五百石という外様の大藩であったために、幕府の大藩潰しの標的とされた美作・津山藩森家と、江戸城内の「松の廊下の刃傷沙汰」で取り潰された赤穂藩浅野家。時の権力者・柳沢吉保の策謀に翻弄される両家の姿を、お家再興のために尽力する森直長を軸に描いた歴史コミック。
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これぞ本物の武士!
もっともっと、語り継ぎ、広く知られるべき人物です!
「森一族」をご案内いたします。

 12月になれば忠臣蔵・吉良邸討ち入りの日がやってきます。
「忠義、武士の誉れ」と伝えられてきた「忠臣蔵」ですが、津山藩・森家の物語こそ今、広く伝えていくべきではと思います。
 領民を愛し、その生活を一番に考えた森長直の生涯は、現代の日本の政治家全員の教科書になると思います。

 一昨年、出版した作品ですが、全国から「感動したので遠くにいる息子に送りたい」または「夏休みに生徒に読ませたい」という声をたくさん頂き、重版いたしました。一人でも多くの方に手に取って頂けますよう。

㈱小池書院編集部長 匂坂美保
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