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高福寺(阿波)

あじさい寺。
摩尼山高福寺は、京都市花園の妙心寺を本山とし、大日如来を本尊とする臨済宗寺院である。
初代津山城主忠政が、美作一八万六五〇〇石の領主として、慶長八年(一六〇三)に入封し、慶長九年(一六〇四)に、津山神戸にあった安国寺を津山小田中の地に移して、名称を本源寺に改め、天倫玄節大禅師を開山として森家の菩提寺と定めた。
その後、本源寺開山天倫玄節大禅師をこの地に勧請し、元和四年(一六一八)に摩尼山高福寺創建された。高福寺は創建開山禅師の因縁により、津山城主森家の鶴丸を寺の紋として使用することがゆるされている禅宗寺院である。
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石山寺

森忠政が津山城の築城に際し、石垣に使用する石材の切り出しをこの地にて行いましたが、事故などが少なくありませんでした。そのため、家臣に命じて摩利支天を勧進し、お祭りしました。それ以来、庶民の祈願所として崇敬され、石山摩利支天として今日に至っています。
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桜:https://www.e-tsuyama.com/kankou/report/2010/04/post-27.html

新善光寺

高野山真言宗 新善光寺は山号を金森山と称し、天長八年(831)弘法大師によって開基され、本尊は阿弥陀如来である。鎌倉時代の遊行聖で時宗の開祖一遍上人(1238~1289)の遍歴の生涯を描いた絵巻物「一遍聖絵」(国宝・京都歓喜光寺蔵1299完成)の中の、第八美作一宮中山神社の絵巻の詞書の一節に「それ(註・一の宮)をたちて、かなもりと申所におはしたりけるに・・・」と記されており「かなもり」とは金森山を指すものであると古くから伝えられている。
一切を捨てて一生を旅のうちにあって念仏の教えを説いた一遍上人が弘安九年(1286)美作一宮から当山にきて滞在したのである。

入り口にある「茶屋林道標」は市指定重要文化財(建造物)。

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清瀧寺

清瀧寺は弘仁十二年(821年)人皇五十二代嵯峨天皇の勅旨により弘法大師が開基されたものと伝えられている。
現建物は寛文九年(1669年)時の城主森忠政侯の寄進により再建。本尊は二十七面千手千眼観世音菩薩。作者は行基菩薩と伝えられ、脇仏の持国、増長の二天は弘法大師の寄作とあり。
市指定重要文化財(彫刻) 木造千手観世御菩薩立像
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/seiryuji/index.html

大雄寺

慶長の末(西暦1610年代前半)に、森家の重臣 原家の親族である伝室玄悦和尚が開山となり創建された。
承応2年(西暦1653年)、伝室玄悦和尚が寂した後、二世 法外和尚、三世 活源和尚と住職が続いたが、元禄7年(西暦1694年)、活源和尚が寂した後、昭和10年(西暦1935年)に四世 宗純和尚(故人)が住職となり再興するまで約240年間、住職がいない時代が続いた。
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福泉寺

薬師如来(医王)が御本尊にて且て森公、松平公の御典医の信仰が厚かった。現今に至るまで衆病平癒、心身安楽、施無畏(せむい)、安産の祈願がなされている。又山門正面の立江(たちえ)地蔵堂には行基菩薩が一刀三礼して刻まれたと伝えられる、西向立江地蔵大菩薩(木彫五尺)が祭られ、左手の宝珠は天地に蔵する宝物を授け、右手の錫丈(しゃくじょう)は交通安全、厄難消除、福智円満、進学外諸々の祈願をされる参拝者が絶えない。(情報提供:福泉寺)
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法源山 宗永寺(小田中)

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 法源山宗永寺は往昔花園天皇の帰依建立となる京都妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派の末寺で、津山城主 森長継公(二代目藩主)の母堂の菩提寺なり。(明暦2年・1656年建立)。渓花院は森忠政公の息女で美濃の金山で生まれ、関民部成次に嫁し元和元年(1615年)21歳で津山に没す。西今町の裏の渓花院に葬られるも、その後明暦2年に宗永寺が建立される。他に長継一門の供養墓として、清泰院殿(忠政公側室)本光院殿(長継公息女・於鍋)、陽林院殿(長継公子息・頼母)、影幻院殿(長継公子息・吉之助)、梅雲院(長継公側室・頼母の母)の石塔を安置す。
古書には9間×12間を擁し城主の信仰篤く、作州の名刹に数えられしが、天保年間惜しくも焼失、現在の本堂は旧観音堂なれど、これは元文4年(1739年)万人講により建立す。その規模から推して旧本堂の壮大さが想像できる。その後、大正年間に檀信徒の再建熱願により観音講を設け、復元計画されたしも挫折して今日に至る。2009.9.19・20

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