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取材記事内を検索ワード「茶」で検索した結果,249件の記事が見つかりました。

津山城東とうふ茶屋 早瀬豆富店

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 大正時代の建物を活用してお店づくりをされた「津山城東とうふ茶屋 早瀬豆富店」は、2017年度 津山市景観賞 激励賞に輝いたお店です。早瀬豆腐店さんは、津山城東町並み保存地区にあり、しかも、出雲街道沿い荒神曲りの傍にあり解りやすい場所です。
 「美味しい豆富の基本は、美味しい豆乳があってこそ、私たちは、豆富作りに大切な原材料・環境・技術のすべてに、とことんこだわり続けています。」と言われる早瀬豆腐店さんは、創業以来70年間守りつづけた豆富へのこだわりをもつ老舗、豆腐製品製造販売の早瀬食品が運営されています。

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名主の話『山西の民話』

musume.jpg山西に水源がなくて困った頃の話である。水田は、ほとんど天水田であった。天水田というのは、自然の雨水をためて耕作する田んぼのことである。特に寒い時の水をためて大事にしとくのである。寒水、雪どけ水は、大へん珍重せられ、夏水にくらべて水のもつ力がつよく、たんぼをまもる力がつよいといって大事にされたものであった。天水田以外は山雨川―蟹子川の流水があったがこれとて川といっても名ばかり、よその溝位のものであった。夏には水がかれて、かんがい用には余り役にたたなかった。


私の小さい時、冬の日に母が水車へ行って米を搗いて来たのをおぼえている。夏場は川の水は朝から翌朝まで、たんぼのかんがい用水として水車をまわすわけには行かなかった。夏の日、冬ためづきした「寒搗き米」でご飯をにてたべていると「スイ」くて変な味がしたが仕方なく文句も言わずに食べたものだった。また、たんぼも天水がだいじで、あぜを特に強くして、槌でたたいてむくろ穴をふせぎ、その上に泥を塗り、藁で日おおいをして更にもう一度泥をぬり水を一滴でも流さないように工夫をこらしたものであった。この天水田を「しる田」といって、夏も冬も水があった。

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津山洋学資料館 春季企画展「文明開化と美作の医学」

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平成30年度津山洋学資料館春季企画展 「明治150年記念 洋学資料館所蔵資料から見た文明開化と美作の医学」より

維新前夜
 幕末の日本は、ペリー来航、開国から、尊皇攘夷の高まり、長州征伐、尊王倒幕、大政奉還と続き、戊辰戦争へとつながる動乱の時代でした。事件・出来事に対する情報が錯綜し、流言飛語が飛び交うなど騒然とした雰囲気が社会を包んでいました。そのような中で、人々はより正確な情報を求めました。友人知人からの手紙では、自身の近況のみならず、巷に流れる噂や、知り得た情報が報告されるようになります。また、幕末には「新聞」が生まれましたが、中には発行者にとって有利な状況を作るべく、それぞれの立場から見た情報を庶民に提供するものもありました。
 このような混乱の中で、江戸幕府から新政府へと政権は移り、270年続いた江戸時代は終わりを告げたのです。しかし、民衆にとっては、それで混乱が沈静化したわけではなく、その後に続く新たな変化の始まりでもありました。


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日本野・開祖の墓碑(日本原)

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まちの文化財 日本野・開祖の墓地
顕彰される福田五兵衛
日本原の街のはずれ、日本坂の上の丘に苔むした自然石の墓碑がひっそりと建っている。この墓碑には
元文五申年 雲仙信士霊 九月初六日
此聖霊者国々嶋々無残
順廻仕依而諸人稱日本
五兵衛是以此所日本野ト申傅也
日本野元祖 俗名 福田五兵衛 と刻まれている。
 作陽誌によれば「正徳(1700年)の頃、日本廻国をして、終りにこの地に供養塔を築き、その側らに小さき家を建てて、往来の人を憩はしめ、あるいは行臥したる者などを宿めてもっぱら慈愛を施せしかば、誰言ふとなく「日本廻国茶屋」と呼びならわせしを、後には略して日本とばかり唱うるごとくなれり。後にその野をも日本野と稱するも時勢と言うべし」と記されている。
 この墓の王は、雲仙信士で、日本野元祖福田五兵衛である。墓碑は、後世この地の人々が五兵衛の徳を顕彰して建てたものと思われる。死没した当時、広戸五穀寺の過去帳には「日本」の地名はなく、五兵衛の没後五十年を経て天明五年六月八日「日本忠助の子」とあり、それ以後死亡者には、ことごとく「日本」という名称が付けられいる。
 「日本原」の地名は、日本廻国をして善行を積んだ福田五兵衛を偲んで名づけたものと思われる。
(勝北町文化財保護委員長・金田一記)(『平成5年発行:勝北風の里探訪』より)

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「邪美館」閉店の日

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2018年9月29日に長年ジャズ喫茶として多くの市民の憩いの場だった邪美館(道路側が邪美館で、奥がビジネス旅館「蛇の目」として営業)が閉店しました。作陽音楽大が津山に在った頃は、音大の先生や生徒さん、津山中央病院の先生などジャズが好きな方が大勢来られていたのを思い出します。利用されていた方々の懐かしい思い出が詰まった津山の隠れ屋的なお店が消えるのは淋しいですね。
46年と長い年月素敵な思い出を残してくださったマスターをはじめスタッフの皆さん本当にお疲れ様でした。

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保田扶佐子美術館 第8回 特別展

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2018年9月16日~9月29日まで、「保田扶佐子美術館 第8回 特別展」が始まりました。今回は、津山出身の抽象表現を目指した作家たち展です。岡山県北津山地方出身の心身を投じて抽象表現と取り組んでいる作家たちを紹介し顕彰する展覧会です。

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民泊施設「NishiIma 25(西今25)」

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2018年6月18日に民泊施設となった「Nishima 25(西今25)」です。ここは、津山市街の西側に位置し、西今町の『片山邸』から今年3月29日にカフェ兼ギャラリーとしてオープンした素敵な古民家で6月15日からは民泊施設となりました。国指定重要文化財のある寺町にすぐ近い静かな場所にあります。運営するのは、長期海外生活で民泊を経験されていた櫻井由子さんです。(2018年6月3日・7月6日撮影)

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「勝間田焼復活会」グループ展

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 本日は「勝間田焼復活会」グループ展にお越しくださいまして、誠にありがとうございます。
 勝間田焼きは平安時代末から鎌倉時代にかけて美作地域一帯で使用された焼物で、勝間田盆地の山間部一帯を主な生産地として発展した、青灰色で非常に硬質な焼物です。椀・小皿の食器類からこね鉢等の調理具、壷・甕等の貯蔵具など多様な製品を焼成しており、主に美作地域一帯から山陰地域にまで広域に流通していました。しかし、鎌倉時代までで生産されなくなり、記録等にも残っていないことから幻の陶器と称されています。

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日本庭園「由志園」の3万輪の牡丹の花

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2018年5月4日、日本一の牡丹苗産地で有名な大根島(島根県松江市)にある「由志園」に出かけました。4月下旬~5月上旬には3万輪の池泉牡丹が庭園内を彩ります。5月6日には一日限定で黄色の牡丹の花で埋め尽くされたそうです。
 江戸時代から続く雲州人参の産地。茶人大名として有名な松江藩七代藩主・松平治郷(不昧公)が財政を再建するため始めた高麗人参の栽培は世界の一級品として高く評価されています。

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津山・森藩・松平藩の代表的な豪商「錦屋」

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2018年3月30日の森本家とつやま自然のふしぎ館です。

 森本家は、錦屋を屋号とし、伏見町で呉服商を営む津山藩の御用商人だったそうです。先祖・森本儀太夫(永禄6年<1563>生まれ)は加藤清正の重臣で熊本城下に居住しており、その弟一族が津山藩主森忠政に召されてこの地に土着し商人となり、藩主森家・松平家に仕え、町年寄、札元などを勤め藩政の御用にあたってきた家で、9代目の藤吉さんは津山銀行頭取(明治12~42年)や町会議員を務め、町の発展に尽力されました。(呉服商の店は明治42年まで続けられていたそうです。)

 藤吉さんの子・慶三さんは、明治33年、両親に無断で内村鑑三に入門しようとするが、最初は断られ、のち、両親の許可を得た上で入門を許され、東京帝国大学農科大学に学び、内村鑑三が日曜日に自宅で開く聖書講義に毎週欠かさず出席し、その教えに共鳴し、明治34年にはキリスト教に入信。明治44、45年には内村鑑三を津山に招き、聖書講演会を開くなどキリスト教伝道に努めたそうです。

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