名主の話『山西の民話』

musume.jpg山西に水源がなくて困った頃の話である。水田は、ほとんど天水田であった。天水田というのは、自然の雨水をためて耕作する田んぼのことである。特に寒い時の水をためて大事にしとくのである。寒水、雪どけ水は、大へん珍重せられ、夏水にくらべて水のもつ力がつよく、たんぼをまもる力がつよいといって大事にされたものであった。天水田以外は山雨川―蟹子川の流水があったがこれとて川といっても名ばかり、よその溝位のものであった。夏には水がかれて、かんがい用には余り役にたたなかった。


私の小さい時、冬の日に母が水車へ行って米を搗いて来たのをおぼえている。夏場は川の水は朝から翌朝まで、たんぼのかんがい用水として水車をまわすわけには行かなかった。夏の日、冬ためづきした「寒搗き米」でご飯をにてたべていると「スイ」くて変な味がしたが仕方なく文句も言わずに食べたものだった。また、たんぼも天水がだいじで、あぜを特に強くして、槌でたたいてむくろ穴をふせぎ、その上に泥を塗り、藁で日おおいをして更にもう一度泥をぬり水を一滴でも流さないように工夫をこらしたものであった。この天水田を「しる田」といって、夏も冬も水があった。


その昔、日照りが何日も続いた。川流れのたんぼ以外はカラカラに乾き上って稲を作ることが出来なかった。その前の年もそうであって、三年続きのかんばつであった。百姓は天を仰いで雨を乞い、雨乞のために村中総出で羽仁の神様や、川中三王神や、蛇渕に雨乞の祈祷をした。また一方では昔からの言い伝えである「千反だき」をして雨を乞うたが一向にききめがなかった。山西の村人の窮状は察して余りあるものがあった。食べ物に窮しては何でも食べた。幹上った田んぼの中のカラス貝、たにし、どじょう、ふな、あらゆる食べられるものはかたっぱしから食べた。然し村人は飢になげくだけであった。


この時、名主(今の村長、部落長)これを見てなんとかして村人の命を助けたいと思った。麦を奨励し、ヒエを作らせ、粟を植えさせた。然し村人は苦しかった。苦しい中からも上納米だけは納めねばならなかった。上納米を納めたあとには米はなく、粟も麦もない有様でした。然し村人は泣く泣く、この窮状に堪えて来た。そこで名主は考えた。もう食べるものがなくなったが、ただ一つ、氏神様のお使いしめキリギリスと沢がにだけが、神様のたたりが恐ろしくて、誰もとって食べていなかった。そのため野辺に、川にキリギリスや沢がにが一ぱいに我もの顔で横行していた。


名主は氏神様にまいって一生けんめいに祈った。
「どうぞ神様、この村人の窮状をあたすけ下さい。そして雨を降らして下さい。それから食べるものがなくなった村人のために、キリギリスと沢がにを食べさせて下さい。」
血をはく思いで祈りつづけた。ところが、氏神様がおっしゃるに、
「私のおつかいめしを食べると、今後一さい山西にキリギリスも沢がにもいない様になるがそれでもよいか?...」との御神託だった。
名主はハタと困った。然しやがて今後はどうなってもよい。―今の村人の命を救わねばならないと決意するに至った。


「神様、今後のことはどうなってもよろしい。今の村人の命をすくって下さい。」と汗をかきかきキッパリと言いきった。そこで村人はきそってキリギリスや沢がにをとって食べて露命をつないだ。これから後、現在まで山西にはキリギリスも沢がにもいない。私の小さい時、あの美しい声でなくキリギリスがほしくて、隣村まで行ってとってきて飼ったが死んでしまった。沢がにも可愛がって、溝の石の家を造って飼ったが、いつのまにかいなくなった。


祖母が、やっぱり氏神様のたたりだといってきかせてくれた。それ以来―山西にはキリギリスも沢がにもいないことがわかった。そして氏神様のたたりの恐ろしさもわかった。
このかんばつから、名主はなんとかして、山西に水源を獲得したいと考えこんだ。いろいろと思案の末、溜池を造って水源を獲得しようと思いついた。名主はこれ妙案だと思った。なぜ、もっと早く思いつかなかったのかと反省した。早速に村人に相談したが、村人は費用がかかる。人夫が出ない。と敬遠して、しようとはしなかった。名主はこれほどの妙案はないと思うのに村人はなぜ手を貸さないのかと不思議に思った。村人の主だった人を集めて度々協議したがラチが明かなかった。丁度その折、山西の中程で火事があり、一家が全焼してしまった。「水があればこんなムゴイことにならずにすんだのに」とだれかがいった。


名主はここぞと、いきおいこんで村人を説いてまわった。村人も「水の必要なことはよくわかるが...」と煮えきらない。そこで名主は「これは自分が本気にならないからだ」と反省した。
そうして昔からの習慣通りに、池を作るのに生きた人間を人柱にして、その上に堤を作ろうと決意した。早速にこのことを思いついて人柱の人選について名主は何日も悩みつづけた。あの人、この人、老人、若い人、男、女といろいろと考えてみた。どうも名案はない。考え抜いたあげく、「そうだ他人様ににたよるより、自分の娘を人柱にたてよう」と思いついた。この考えはきわめて簡単であったが、実行は困難をきわめた。まず一番に自分の女房に打ち明けた。女房は大変驚いて「そんな無茶なことが出来る筈がない」と、はじめから大反対であった。然し名主はこうと決心したからは決してあとにはひかなかった。諄々として、女房に村を救う道は外にないことを説いて、とうとう賛成してもらった。所がかんじんかなめの12歳になる娘の子のこの事を話していなかった。ここに最大の難関があった。父の名主は娘の子にといてきかせた。


「娘よ。父は不憐なことを充分知っている。父は悪い奴だ。鬼じゃ、蛇じゃ。お前を犠牲にして村の幸福を得たいという悪者だ。然しこれより外に方法がないんだ。お前が死んでくれて、はじめて水ききんがなくなるんだ。頼む、この悪い父の願いをきいて、生けにえになってくれ、その代りお前のほしいものはなんでもしてやる」
2か月も3か月もかかって口説いて行った。娘は12歳。「私はもう少し長生きをして幸福に暮らして行きたい、死にとうないー」と言った。


名主は娘の気持ちはよくわかるが、然しここまで来ては、決してあとへさがれない。娘はとうとう父の言葉に従うより外はなかった。ガンゼナイ、12歳の娘は父のため、村のため、生けにえになる決心をした。
「お父様、私が死んで村の人が助かるのなら、私の命をさしあげましょう」と言ってくれた。
「娘はきれいなオべべを3枚と、ジュズと鏡を入れて下さい。棺の中で生きているしるしに鏡をたたきます。その時は竹の筒からお水を入れて下さい」


可愛い手を合わせてたのんだ。父も母も泣いた。父は「娘よ、お前の死を決してムダにはしないぞ。村人のため、村、永久の幸福のために、お前の命がほしかったのだ。決して決して無駄にはしないぞ」と涙ながらに言った。
こうした名主の決意がはじめて村人の心を打った。こうまでも名主が本気になっているんだからと、計画はち着々と進んで行った。池の位置がきまり、土工の人夫が出て堤を作っていった。その土手の堤に娘の生きた棺が埋められる計画だった。一番安全で而も重要な位置に棺を埋める計画だった。2月、早い春が近づいて来ていた。梅の花があちこちに咲いていた。娘の棺が作られて、着物が3枚、一番よい晴着をきせられた娘は、もう決心して涙一つこぼさず棺に入った。見送る父も母も村人も、この娘の心根にうたれた。オオと涙を流して、手を合わせた。母はせめてもの別れにと、花の咲いた梅の枝を一はい棺に入れた。梅の香が棺の中いっぱいに漂っていた。しずかに棺がおろされた。


一番の鍬は父の名主が土を棺にかけた。母がかけた。身内のものがかけた、村人が代わりあってかけた。「南無阿弥陀仏」とお経をとなえながら、中からは娘のたたく鐘の音がしずかにひびいた。棺は完全に堤に埋められた。
村人たちが堤を作る作業-千本づきの唄声が「池の千本づきは、可愛い娘の上をつく」「娘かわいや土手の下、千本づきの下で泣く」村人は涙を流しながら千本づきにはげんでいった。そのかいあって池の堤は立派に完成した。娘の鐘の音は、夜となく、昼となくひびいて村人の心をうった。


池の水は寒の雪どけ水や五月雨の水を集めて、満々とたたえた。何年かたって棺に入れた梅の木が芽をふいて枝をのばして来た。今も池の北隅に梅の古木があって昔日の物語を伝えてくれている。なんと不思議な話である。
この池が出来てから次ぎ次ぎに溜池が村人の手によって作られた。新池、法連寺池がそれである。高倉地区に山西のものによって作られた「池の峪の池」と「飯山池」も、ともに山西のかんばつをすくってくれた池である。この4つの池は築造年ははっきりと部落史にのっているが小池(古池)だけは判明しない。


またこの名主は山西を貧乏からすくうためにいろいろと工夫した。その一つに備前に行って藺草を研究して藺草作りを奨励した。この藺草によって「山西の盆ござ」を考案して、盆にはきまって御仏前に敷いて、仏祭りには欠かせないものとして一般に売り出した。その努力は並大抵のものでなかったと思う。その後いろいろと工夫して「一本打ち」「しま入りござ」なども発案された。盆が近づくと、どこの家でも若い娘達が一生懸命にござ打ちに精進し、若い男達が作業場(大抵カデヤ、長屋)をたずねてござの耳を組んでやったものである。
その後(古池が作られた後)名主は金に困った。借財だけを残して追われる様にして山西から出奔した。人の世の常とはいえ誠にきびしい限りである。


山西村(詳しくは旧名苫田郡高野村大字高野山西、現在津山市高野山西)の昔の姿を伝えたい念願から、この稿を起こしたものである。
 老人の懐古趣味だと笑うだろうが、私も喜寿の齢ををこして、余命いくばくもなしと思うと、何かしら、山西村の文化遺産が消え去ろうとしている様な錯覚が出て、おしまれる様な気がしてならんので、思い出をつづりました。まだまだあると思うが、一応この辺で打ち切りました。
 これらの民話は、私の子どもの頃、祖母が折にふれて物語ってくれた話をもとにして書いたものである。大方の皆さんの御指導と御批判を頂きたいものである。          
1985年7月1日著者しるす。故高橋明治(たかはし・あけはる)/明治39年3月22日津山市高野山西生まれ


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