田中角栄書 義民堀内君顕彰碑(下高倉西)
義人堀内氏 頌歌
一、むかし元禄11年 城下にせまる数千人 半切すがたなわの帯 堀内三郎工先頭に
二、村の苦しみ身に背おい 兼田河原に花と散る 義人の心とこしえに 天にもひびけ仰ぎみよ
三、ああ三百年星うつる 芳烈かおる顕彰碑 わが里人に語りつぐ 正義の誇り心意気
義人堀内氏 頌歌
一、むかし元禄11年 城下にせまる数千人 半切すがたなわの帯 堀内三郎工先頭に
二、村の苦しみ身に背おい 兼田河原に花と散る 義人の心とこしえに 天にもひびけ仰ぎみよ
三、ああ三百年星うつる 芳烈かおる顕彰碑 わが里人に語りつぐ 正義の誇り心意気
2018年10月21日(日)に平成最後の「津山祭り」が高野神社にて執り行われました。この日は昨年とはうって変わって晴天に恵まれ、盛大に神事が行われ本当によかった。だんじりもウエストランドに集合した後、高野神社まで行きます。今年は本殿が修復の工事の為、神様は一時御崎神社に遷座されていました。また、今年のだんじりは11臺だったそうです。(だんじりを全部撮ることは出来なくてごめんなさい。)
2018年10月21日、津山市小田中に鎮座する白加美神社の秋祭りが執り行われました。
地元なので毎年伺っていますが、今年は特に若人がキビキビと舞う獅子舞がとても素晴らしかったです。それに、小学生の笛の音色も可愛かったです。小田中も高齢化率も高くなってきていますので担ぎ手も少なくなっていますが、白加美神社の秋祭りは延々と続いてほしいものです。
2018年11月1日のイナバ化粧品店です。津山地方は曇り空で朝夕はかなり寒くなってきました。
イナママは九州から帰られたばかりで少しお疲れ気味かも?と思いましたが、「これ、ともちゃん(お嫁さん)が作った、いなえもんといなのすけ。皆様も風邪ひかないようにね!」とお元気にメッセージをくださいました。
2018年10月19日、津山高専つやまイノベーションセンターIT研究会主催で「大人も楽しい、IchigoJamプログラミング体験会 iNつやまこうせん」が開催され参加して来ました。
講師の先生は、Presenter:株式会社jig.jp 会長 福野 泰介氏で、内閣官房オープンデータ伝道師です。
習う前は、ど素人がプログラミングを簡単に組めるものかと半信半疑でしたが、勝手にプログラミングは難しいものと決め込んでいる自分に気づいたことと、素直に言われることを実行して行けばそんなに難しく考える事もないと思いました。先生は教え方がお上手で大人も楽しめました。
杉さま古墳は、勝北町杉宮にあり、那岐連山の裾野に開けた勝北盆地の西側をほぼ南北に走る丘陵中央部のあたりに西賀茂神社があり、そのうしろの社叢へ向かって50mほど入った頂上部に3基の古墳が並列して存在する。
古墳前方には広戸川が流れ、その向こうに水田地帯を見渡す丘陵は、海抜150m、平地との比高差15m、古墳の大きさ直径15m、高さ2m、3基ともほぼ同規模の円墳が南北へ隣接し、原形をよくとどめている。
杉さま古墳の立地する丘陵上に沿って北に6~7世紀頃と推定される三島古墳、西北に宗四郎古墳、城平古墳が存在し、また南へ約2㎞の地点には平成3年に発掘調査が行われた近長丸山古墳があり、この間を継ぐ線上の中間点に上野田十三塚古墳の跡があって当時の葬送儀礼、古代人の生活の有様を窺うことができる。
町内には、そのほか竪穴式の古墳や横穴式の石室をもった古墳、方墳など130基あまりが確認されている。
杉さま古墳は、幾世紀にわたって風雨に晒され、その間において盗掘などによる破壊を免れよく原形を遺している数少ない古墳の一つである。
およそ6世紀頃のこの地方で稲作を中心として生活した氏族小集団の首長墓ではなかろうかと考えられており、平成4年9月これらの古墳を町の文化財に指定する一方、入口に説明板や案内標識などを立て町民、特に小中学生の生きた教材として利用できるよう整備されている。
国道53号線、上村バス停で下車し、南へ徒歩で約10分。
(勝北町文化財保護委員・平田安男記)(『平成5年発行:勝北風の里探訪』より)
2018年10月13日、久しぶりに「津山まなびの鉄道館」に出かけてきました。丁度、明日が(14日)指定日となっていますので、キハ58形気動車の頭出し、DE50形ディーゼル機関車を転車台に搭載、子ども制服の貸出、無料のレトロリレーバスの運行等、いろんな特典がありました。
当社では、日本国有鉄道(国鉄)が取り組んでいた鉄道文化遺産の保存活動を引き継ぎ、当社管内にある貴重な鉄道文化遺産の散逸を防ぎ、良好な状態で保存・管理する取り組みを行っています。
当社では、管内の鉄道文化遺産の価値を評価したうえで「鉄道記念物」、「準鉄道記念物」、「登録鉄道文化財」に区分し、保存・管理を行っています。
今回、登録鉄道文化財である「旧津山扇形機関車庫と転車台」を鉄道記念物に格上げ指定いたします。指定日:2018年10月14日(日曜日):鉄道の日(JR西日本2018年9月13日ニュースリリースより)
極楽寺略縁起
美作国小桁山極楽寺は天台宗延暦寺の末寺であります。
当山は文徳天皇御宇天安二年(西暦858)、極楽寺の開祖天台宗第二の高祖慈覚大師円仁が西國行脚の砌、当山の民家に止宿せしめたまう。
覆う事三日三夜、しかる間に雲中に阿弥陀如来光明赫として左右の大士こと光を放ち、此の山の絶頂の影に向いたまいて大師遙拝して不思議かな云々。
本堂阿弥陀堂は山頂にあり堂跡(堂屋敷)なおあり、山の頂を安養の峯と稱し、北の谷を成仏谷、南の谷は不老谷、山を於桁と云う寺を極楽寺とす。
本堂の周囲には、観音堂・虚空蔵堂・大子堂・鐘楼・寺坊・十二院、一町東に二王大門あり。
過ぎし七百年以来の災難で坊舎を失い埋没して、残る所の四ヶ寺は、藤元坊・久保之坊・西之坊・極楽寺であり云々。
中略
備前岡山の城主宇喜多直家は、花房助兵衛職秀(もとひで)をして荒神山に城を築かせ職秀城主となる。職秀は日蓮宗の強信者であるため極楽寺の僧豪顕に日蓮宗えの改宗を強く迫ったが、豪顕は可とせず拒否しました。
職秀怒りて僧豪顕を追放し寺を取壊その用材を持ち帰えりて人馬の住家にと工事は進みましたが、完成を目前にして無風の時にも拘らず倒壊し人馬の多くが損傷する所となる。その後荒神山城は廃城となる豪顕帰えりて一字を営む。
後法孫円慶帰えりて荒廃した堂を修復す。本堂、千手観世音菩薩をもって本尊となす。脇侍不動附釈迦地蔵、毘沙門、荒神の像を安す。
「美作圀久米南條郡小桁山極楽寺 本尊千手観世音略縁記 住法明院」による。
昔のことである。飯綱から飯山、加茂-物見-因幡にぬける道を「因幡街道(加茂街道)」といって、津山から因幡にぬける重要な道筋であった。御維新にならない前の頃だった。この街道を津山から加茂へ帰ろうと急いでいる一人の馬子がいた。道は夏目池の裏側を通って飯山の六本松のある観音様の所へ通りかかった。フト観音様のお堂のかげから女の人が出て来た。馬子はこんなにおそく観音様から若い女の人が出るなんて、と不思議に思った。
女の人は若い美しい娘だった。
口碑によると、貞観年中(859~877)小桁山極楽寺の僧円仁が、近江国日枝神社の御分霊を迎えてこの山に祀り極楽寺の鎮守としたという。作陽誌に、極楽寺の項の鎮守社山王十禅師とあるのは本神社のことである。最近まで極楽寺住職が例祭には必ず参列するのを例とした。本神仕はもと山王権現社と奉称したのを、明治4年高富神社と改称し、明治6年村社に列した。(文:岡山県神社庁HPより)