西東三鬼の句碑
(2017年8月20日撮影/津山駅前国道53号線沿い)
西東三鬼
明治33年(1900年)、津山市生。昭和37年(1962年)没。
新興俳句の旗手として活動の先頭に立つ。山口誓子を擁し「天狼」を創刊し、初代編集長を務める。自らも「激浪」「断崖」を主宰した。毎年4月1日には墓碑のある成道寺で、門下生や由縁の人々によって三鬼忌が行われている。また、津山郷土博物館には彼の遺品や遺墨などが集められ公開されている。
(2017年8月20日撮影/津山駅前国道53号線沿い)
西東三鬼
明治33年(1900年)、津山市生。昭和37年(1962年)没。
新興俳句の旗手として活動の先頭に立つ。山口誓子を擁し「天狼」を創刊し、初代編集長を務める。自らも「激浪」「断崖」を主宰した。毎年4月1日には墓碑のある成道寺で、門下生や由縁の人々によって三鬼忌が行われている。また、津山郷土博物館には彼の遺品や遺墨などが集められ公開されている。
2018年5月4日、日本一の牡丹苗産地で有名な大根島(島根県松江市)にある「由志園」に出かけました。4月下旬~5月上旬には3万輪の池泉牡丹が庭園内を彩ります。5月6日には一日限定で黄色の牡丹の花で埋め尽くされたそうです。
江戸時代から続く雲州人参の産地。茶人大名として有名な松江藩七代藩主・松平治郷(不昧公)が財政を再建するため始めた高麗人参の栽培は世界の一級品として高く評価されています。
大岡熊次郎 1842年5月20日~1920年6月1日(天保13年~大正9年)
地方政治家、篤農家、郷土史家、勝南郡(現津山市)池ケ原村に生まれる。
寛政の駕籠訴訟を行った岡伊八郎の孫。明治元年(1968年)徳川親藩のため窮地にたたされた津山藩は、津山城包囲軍の交渉に、岡熊次郎を外事部の肩書で派遣して、津山城は無事開城することになりました。明治21年(1888年)大岡と改姓。
明治6年(1874年)血税一揆による犯罪者の発生防ぐ。明治7年 北条県会議員。
明治9年 第八番会議所戸長。明治11年~12年 勝南郡書記として、窮民救済に尽力。
明治15年 自由民権運動に参加。明治13年~25年連続3期、勝南郡選出の県会議員を務めた。また、養蚕事業や畜産事業や高取小学校や勝間田農林高校(現・勝間田高校)のも貢献。享年79才:大正9年(1920年)6月高取村村葬。(文:『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)
医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米郡 (2014年9月17日取材)
天台宗の寺院である。作陽誌には嘉祥三(850)年の建立とあり、又、貞観二(860)年三月、天台座主慈覚大師が、清和天皇の勅命を奉じて建立したものともされている。何れにしても平安前期の開山創立ということになる。往古は十二坊もあったといわれるが保元年中(1156~1159)火災により末房悉(ことごと)く消失した。それから約六百年ばかりの間は様子がわからないが、江戸時代になって天和二(1682)年五月梁行二間、桁行二間の本堂が建てられ、それから九年の目の元禄四(1691)年三月十二日には庫裏が建築された。庫裏は敷坪十二大工、備前國奥(邑久)郡上山田村、光義次左衛門となっている。それから五十五年目の天明三(1783)年には鎮守八幡堂・門・飛境内の観音庵・大日堂が出来上がった。
第82番札所 弘法大師(西吉田)大師堂 昭和44年10月4日建立
勝南霊場札所は、四国霊場の八十八ヶ所をこの勝南郡【新田、池ヶ原、福力、中原、里中原、名坂、植木、金井、西吉田、旧広野村、旧河辺村】に八十八ヶ所を作ったものです。
第1番札所は、新田の公会堂の前に駐車場があります。以前、そこは宅地で家があって、屋号は荒神堂、そこが始まりでした。第2番札所は、以前、福井照夫氏宅の屋敷内にありましたが、現在、本尊は第八十八番に移しています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)
新見藩の歴史
このまちは江戸時代元禄10年(1697年)に初代新見藩主関長治侯によってつくられたまちです。新見藩は1万8千石です。元禄時代はすでにお城は造れない時代でしたので、御殿(官邸)を建て、そこで政務を執られました。このことによりこの地区を新見御殿町と言っています。
関家と森家の本国は美濃です。両家は濃い姻戚関係にあり、共に織田信長に仕えておりました。天正10年、本能寺で織田信長に最後まで従って戦死した森蘭丸、坊丸、力丸の一番末の弟が千丸で、千丸だけが幼くて美濃に残っておりました。その後、千丸(森忠政)は関ヶ原の戦いで功を認められ、徳川幕府から津山藩18万6千石を賜りました。この森忠政侯が津山藩森家の藩祖です。その時、関家も津山へ移りました。津山藩森家の2代目のお殿様は関家の長男(長継)で、長継侯の子、長治侯は逆に関長政侯の養子となり、作州津山藩の中に1万8千石の領地をもらって大名となりました。森家5代目衆利侯が急死し、跡継ぎが無かったのでお家は断絶。森家は分かれて播州三日月城と播州赤穂城へ移らなければならなくなり、それに伴って関家も津山から新開地の新見へ移封されることになりました。元禄10年のことです。こうして新見藩が誕生したのです。
その後、新見藩関家は明治まで9代続き、現在は第13代末裔の関勝氏は埼玉県におられます。
2015年10月27日(火)美作の歴史を語る会主催の新見研修会があり参加して来ました。
新見市立新見美術館を皮切りに新見市内を散策。新見は津山藩との縁も深い所なのでとても興味深いところでした。その様子を遅ればせながらアップしました。
当日は、新見御殿町まち歩きガイドの会の大西様にガイドいただきました。
2018年2月16日に津山市役所から帰りに衆楽園に立ち寄ってみました。比較的暖かめの津山市でしたが、衆楽園では松の剪定や屋根のお掃除や庭のお手入れ等々春に向けて準備中でした。中に入ると梅の花は蕾で、咲くのはもう少し先になりそうです。池の中ではサギや水どりがせわしく動いていました。また、この時期は水が澄んでいて底がみえていました。昔は白鳥さんがいて私たちを楽しませてくれたなぁ~と思いながらサギさんを眺めてきました。
明石公園とは、六甲山系の西端、赤松山台地にのこる明石城跡を中心につくられた都市公園です。
城跡は、明治十六年五月、当時の明石郡内の有志によって公園として開園されました。のち皇室御料地に編入されるなどの経過をたどり、大正七年四月、新たに県立公園として発足しました。
園内には多くの樹木や植物が繁茂し、変化にとんだ丘や池、堀は周辺の自然環境と調和して美しく、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と市街地にありながら野趣ゆたかです。
平成元年七月には「日本の都市公園100選の地」に、平成二年三月には、全国「さくら名所100選の地」に選ばれています。(文:明石公園HPより)(2017年11月26日撮影)
備中櫓は天守台の南東、本丸南面に突出した石垣上に立地する2階建ての櫓です。
高さ約13メートル、幅約24メートル、奥行き約8メートルで、延べ面積は約288平方メートルです。
60を数える津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物であるといえます。
構造
備中櫓は、木造一部2階建てで屋根は本瓦葺きの入母屋造り、外壁は軒廻りも含めて白漆喰塗りです。通常、櫓の内部は板敷きあるいは土間ですが、この備中櫓の内部は全室畳敷きという特徴を持っています。