美作国建国1300年記念「金太郎こども角力大会」
美作国建国1300年記念「金太郎こども角力大会」2013年6月9日(日)
9:00~11:30金太郎こども角力大会の部、12:30~14:20大相撲イベントの部が勝央町植月中の角土俵でありました。主催は勝央北小学校、勝央町、植月、吉野、古吉野地区です。地域一帯で盛り上げておられました。また、ゲストに佐渡ヶ嶽部屋力士(琴欧州、琴国、琴恵光、琴欣旺)が来られていてとても楽しいイベントでした。
美作国建国1300年記念「金太郎こども角力大会」2013年6月9日(日)
9:00~11:30金太郎こども角力大会の部、12:30~14:20大相撲イベントの部が勝央町植月中の角土俵でありました。主催は勝央北小学校、勝央町、植月、吉野、古吉野地区です。地域一帯で盛り上げておられました。また、ゲストに佐渡ヶ嶽部屋力士(琴欧州、琴国、琴恵光、琴欣旺)が来られていてとても楽しいイベントでした。
向原(むかいばら)から東に一宮街道の坂道を上りきったところが、野村(のむら)と下高倉東の境に当たる揚舟(あげふね)の四辻である。この四辻の西北に見える山の頂に「鐘馗神」(しょうきじん)と呼ばれる自然石の塔が建っている。また四辻には「左一の宮・大たい寺」と記された道標がある。
石塔の真中に、虎とその上に立つ鐘馗大神の姿が彫られていて、右側に「鐘馗大神 虎」、左側には「永口三月十五日延月」と刻まれている。裏面には、中央に「大日本国中口口成就」右に「天下太平十干之氏子息災延命」、左に「国土安全而牛馬安全」とある。
「永口の3月15日に延月が建てた」と見えるが、地元に伝わる話はない。現在は揚舟・向原組合が管理し祀っている。
我が家に叔母の作った真多呂人形を迎えて、3回目のひな祭りが巡ってまいりました。この冬は図らずも中村勘三郎さん・市川団十郎さんと歌舞伎界の大立役者が相次いで亡くなられました。そこで、団十郎さんの十八番の「暫(しばらく)」など江戸歌舞伎の人形たちを飾りました。(文:江川満子さん)2013年3月31日取材
福井の南部、土居の公会堂付近に、真宮神社の鳥居や花壇があり、その地点より山手へしばらく上がると、海抜204mの平坦な山頂部に達する。ここに福井と新田にまたがって古い城跡があり、新宮城跡と言われている。展望のきく南側は、広戸川に面して急峻な岩肌が切り立っており、城としては天然の要塞を思わせるものがある。
山頂の平坦地は、南北およそ40間(約70m)・東西180間(約200m)の広さがあり、中間に長さ40間余の土塁らしきものが残されている。かっては、土塁の西側に建物の本拠があり、広い東側は、城郭内の広場や城兵糧食の耕地であったと言われている。この新宮城跡については、源平のころからの古い歴史をもつだけに詳細不明で、城主についても異説があり、名称すら新宮か真宮か判然としない面があり「東作誌」等でも謎に包まれた記述がされている。
しかし一般にはあまり知られていないが、明治末年に書かれた新宮城の詳しい伝記本が存在している。安藤十朗氏著「霊夢 神宮山木下伝記」(和綴じ全5巻付録1巻 福井 安藤六衛氏蔵)がそれである。
平安後期に平氏一門の木下氏が拠点として築城した様子から、源平合戦で滅亡するまでの経過を、年代をふまえて克明に記録した伝記である。2012.6~12月取材
▲森田宗克さん宅(久米南町山ノ城349)のバラです。(2012年6月2日取材)
森田さんご夫妻は大阪府から5年程前(2007年)にこちらに来られ、広いお庭や自宅前の畑などを1年目は開墾、2年目から順次バラ園を作ってこられたそうです。このバラ園の名は「里山華農園349」で、多くの人に知ってもらい楽しんでいただきたいとおっしゃっておられました。
赤堀さん宅のバラ(2012年5月30日取材)
津山市上村319-1(旧勝北町)にある赤堀加津枝さんが育てているバラです。お花の好きな赤堀さん宅の庭にはバラをはじめ四季には色とりどりの花々が咲いています。今年もバラが見事に咲いていました。(2009.5.27の様子はこちらをご覧ください)
森林公園のあらまし(2012年5月6日)
岡山県立森林公園は、岡山県が「明治百年記念事業」の一環として購入した県有林のうち、県北の鏡野町奥津地域と同町上斎原地域にまたがる森林を整備し、"岡山県立森林公園"として昭和50年7月開園しました。
この公園は鳥取県との県境に位置し、面積334ヘクタール、標高840~1,100mの中国脊梁山地にあり、気候は日本海側気候に属しています。
森林の大部分は、ブナ、ミズナラ、マルバマンサク、ツノハシバミなどの落葉広葉樹と群生したネマガリダケが主体ですが、一部には県内でも珍しいカラマツ林があるほか、スギ天然林、スギ、ヒノキの人工林もあります。
尾根筋には、ブナ、ミズナラの大木が茂り、山麓の一部にはマユミの大木が秋見事な赤い実をつけ、また清らかな渓流沿の湿地では、バイケイソウ、ザゼンソウ、オタカラコウなどの湿原植物が季節を追って出現するなど、四季を通じて変化するすばらしい自然景観と眺望はこの公園の特徴です。
開園機関:4月雪解けから11月末日・新緑見ごろ:5月上・中・紅葉みごろ:10月中・下旬(パンフレットより)
河面 斎田のあったあった歯朶森大明神(2012年1月28日取材)
植月線河面坂を下り、平地にでる間際の南側山手(喫茶パンの木の裏山)に、ひっそりとした雰囲気の歯朶森大明神(しだもりだいみょうじん)と言われるお宮がある。神社へは、国道から南に入った最初の谷をしばらくいくと、鳥居が見え、境内への上がり口となる。神社らしい森のなかに、小規模ながら鳥居・石段・常夜灯・お宮の本殿とたたずまいをもち、よく手入れされ整えられている。
伝承によると、平安末期に福井の新宮城に祀られていたお宮が、源平合戦の戦乱に巻き込まれて、落城の後ここに移されたらしい。文化9年(1812年)発刊をみた「東作誌」には、河面村に「歯朶森明神社」の存在が記載されていることからも、昔ながらの神社である。
嘉吉元年(1441)、山名教清が美作国の守護に任ぜられた際に築城されたものと伝えられています。その後、天正17年(1589)8月、野火によって焼け廃城になるまでの148年間、山名、赤松、浦上、尼子、宇喜多、毛利の各氏が、美作国の制覇をかけて激しい攻防を繰り広げられた舞台ともなりました。
城は岩屋山の山頂に本丸を置き、本丸を中心に三方向に曲輪を配した複雑な梯郭式の山城で、本丸南に馬場、西南には石橋上や椿ヶ峪砦を設け、更に西には小分城を築き防備を固めていました。本丸東には二の丸を置き、その南には三の丸を配しています。東の谷の固めとしては、12本の竪堀を設けています。大手南斜面に見られる大小20箇所以上の防備のための郭は、美作地方では他に類をみないものです。他に井戸、慈悲門寺跡なども残っています。(2011.5.4)津山の文化財より
枝垂れ桜はすばらしい。
当寺のご開祖さまは、実峰良秀禅師のお弟子であり、本寺瑞景寺(大本山総持寺の御直末)の二世綱菴正宗大和尚(1434年没)である。開創年月日応永年間(1394年~1428年)の頃と思われる。