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取材記事内を検索ワード「石垣」で検索した結果,164件の記事が見つかりました。

河辺上之町(桝形)津山市指定史跡

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河辺上之町(西の桝形)(2011.5)
 津山藩は、「百姓村の山上がり」と言われる農地拡大政策を断行しました。中でも、寛文4年(1664)に実施された河辺村の移転は大規模なもので、57戸が対象になりました。農民たちは「しとと原」と呼ばれる丘陵への移転を命じられましたが、その場所は暮らしに不便な上、牛の餌や肥料にする大切な柴草を刈る場所であるため無くなると困ると、藩に訴えましたが聞き入れられませんでした。しかし、農民は土地にかかる年貢を免除する、津山城の草刈を認めるなど条件が整ったことから移転に応じました。現在、この場所は河辺上之町と呼ばれ、東西に石積みの枡形が残っています。

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荒神山城跡(市指定史跡)

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▲荒神山城跡(2011.5.14)手前はやまなみ街道です。(荒神山123番地の1)

荒神山城跡は、元亀(げんき)元年(1570)に宇喜多氏の武将花房職秀が築城し、わずか24年後の文禄3年(1594)には廃城となった短命な山城です。
 本丸を中心とした曲輪の配置は、連郭式と輪郭式の複合したものであり、枡形虎口の存在、瓦葺き建物の存在を示す大漁の瓦、大規模な井戸跡、本丸周辺に認められる石垣など、中世から近世への過渡期のいわゆる職豊系城郭の特徴を顕著に示しています。

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中世山城「医王山城跡」

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▲医王山城跡(2011.5.8)
 標高340mの山頂に築かれた山城で、祝山城、岩尾山城とも表記されます。北東を大手、南を搦手とし南北に細長い曲輪を連ねています。本丸は北端にあり、東西12m、南北20mの平坦部の西側と北側に石垣が築かれています。北の峰続きは堀切で遮断されています。二の丸は、本丸の南方に細長く続く平坦部で東側の一部に土塁が確認されます。さらに、その南方に三の丸が位置します。
 初めてこの地に築城したのは、南北朝期以前の上道是次であるとされています。その後、南北朝抗争の際、毛利方の湯原春綱が籠もり宇喜多勢と攻防を繰り広げますが最終的に美作は宇喜多領となりました。(文:『津山市の文化財』より)

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津山城(鶴山公園)さくらまつりイベント

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▲2011.4.17(日)津山さくらまつりのイベント会場

多くのお客様にお出でいただきお陰さまで完売となりました。ありがとうございました。

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津山城(鶴山公園)さくらまつりのイベントの様子です。

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津山さくらまつり 津山城(鶴山公園)
毎年春に行われる「津山さくらまつり」。大きく立派な石垣の上に約1,000本の桜が咲き乱れ、日本のさくら名所100選にも選ばれています。
期間:平成23年4月1日~15日 入園料金:300円(小中学生は無料 30人以上2割引)
開園時間:さくらまつり期間中は7:30~22:00 (4月~9月は8:40~19:00) (10月~3月は8:40~17:00)

関連リンク:
津山観光協会 津山さくらまつり2011(会場図などこちら)
津山市公式サイト

津山市駐車場情報(空車状況がわかります)

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石山寺

森忠政が津山城の築城に際し、石垣に使用する石材の切り出しをこの地にて行いましたが、事故などが少なくありませんでした。そのため、家臣に命じて摩利支天を勧進し、お祭りしました。それ以来、庶民の祈願所として崇敬され、石山摩利支天として今日に至っています。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/ishiyamadera/index.html
桜:https://www.e-tsuyama.com/kankou/report/2010/04/post-27.html

津山城(鶴山公園)の石垣についてその2

その1その2その3その4その5

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▲表中門(二階建ての門で、大阪城、名古屋城、江戸城を除いて一番大きな門で、登城する石段としては全国でもまれな石段の幅といわれているそうです。)

津山城の石垣は発掘調査で見つかった埋没石垣を除き、城内で観察することのできるものについては、おおむね3つの類型に分類することができます。
1、自然石あるいは自然石を打ち割っただけの石を用い、角の部分も不規則な石で構築するもの。
2、表のみ面をのみで平滑に加工した石を用い、石と石の間を小さな石(間詰め石)で詰め、角には大きさのそろった長方形の石を用いるもの。
3、表面を繋で平滑に加工し形をほぼ四角く整え、間詰め石をほとんど用いず、角の部分も長方形の石を規則正しく積み上げているもの。の3つです。これらはその石の加工の具合などから古い順に1→2→3と技術が進歩していったものと考えています。

1の特徴をもつ津山城で最古階段の石垣は城内のどの辺りになるのでしょうか?
それは本丸の東側の太鼓櫓や月見櫓が乗る石垣、本丸の入り口の切手門南側の石垣、あるいは搦手側(裏手側)になる七間廊下石垣および裏鉄門枡形内の石垣などに見ることができ、本丸およびその周辺に限られるようです。(津山城百聞録より抜粋)

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津山城(鶴山公園)の石垣についてその3

その1その2その3その4その5

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津山城を築城した森忠政は信州川中島の海津城から慶長8年(1603)に美作国1円18万6500石を与えられ、美作に入封しました。そして翌慶長9年(1604)に津山城築城を開始したのです。まさに関ヶ原以降の大名の転封、それに伴う新規築城という全国的な大きな流れに乗ったものです。

参考までにこの時期の外様大名による築城例をあげると、加藤清正の熊本城、細川忠興の小倉城、加藤嘉明らの伊予松山城、池田輝正の姫路城、藤堂高虎の伊賀上野城、伊達政宗の仙台城など日本を代表する城があり、津山城もそれらの城と匹敵する規模の城郭でした。さらに、津山城の築城は元和2年(1616)まで続くのですが、これは元和元年の武家諸法度の公布により築城を終了し、一応津山城の「完成」としたものと思われます。(津山城百聞録より抜粋)

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▲津山城の石垣。扇の勾配(65度前後が人の目からみて一番美しいといわれている。)

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