2018年 尾所の桜の紅葉
2018年11月10日「尾所の桜」が紅葉した姿です。
阿波の尾所の桜の紅葉を見てこようと思いつき、午後も少し遅めに行って来ました。時折日がさす天候の中でしたが、夕暮れの尾所の桜も凛として存在感がありまたいいものです。
尾所の桜は推定樹齢560年もの長きにわたり何を見てきたのだろうか?阿波で暮らす人々の暮らしの移り変わりをじっと同じ場所で見続けてきたのだろう。これからも末永く見守り続けてほしいですね。
2018年11月10日「尾所の桜」が紅葉した姿です。
阿波の尾所の桜の紅葉を見てこようと思いつき、午後も少し遅めに行って来ました。時折日がさす天候の中でしたが、夕暮れの尾所の桜も凛として存在感がありまたいいものです。
尾所の桜は推定樹齢560年もの長きにわたり何を見てきたのだろうか?阿波で暮らす人々の暮らしの移り変わりをじっと同じ場所で見続けてきたのだろう。これからも末永く見守り続けてほしいですね。
2018年11月4日(日)晴天の日に城東伝統的建造物群保存地区一帯で「出雲街道 津山城東むかし町」のイベントが執り行われました。当日は、橋本町~東新町の区間が歩行者天国となり、むかし町物産市やうまいもん屋台が出店して賑やかでした。通りを歩いていると、南京玉簾の皆さんとお会いしましたので記念に一枚写真を撮らせていただきました。笑顔がとてもいいですね。
徳守神社の秋祭りが2018年10月28日に盛大に執り行われました。
当社の御例祭(秋祭り)は毎年10月の第四日曜日に執り行われます。御例祭とはこれまでご加護いただいた感謝を、これからもご加護いただく祈りを、徳守神社にお鎮まりになられている神々に最大の礼を尽くしてご祈願するその年最大のお祭りです。
この、御例祭の後には徳守様を大神輿にお遷り頂き、行列を組んで氏子町内を巡りますが、この一連の大祭りを親しみを込めて徳守祭りと古くから呼ばれており、津山市としては、津山祭りの一つとしても親しまれております。(文:徳守神社HPより転載)
昔のことである。飯綱から飯山、加茂-物見-因幡にぬける道を「因幡街道(加茂街道)」といって、津山から因幡にぬける重要な道筋であった。御維新にならない前の頃だった。この街道を津山から加茂へ帰ろうと急いでいる一人の馬子がいた。道は夏目池の裏側を通って飯山の六本松のある観音様の所へ通りかかった。フト観音様のお堂のかげから女の人が出て来た。馬子はこんなにおそく観音様から若い女の人が出るなんて、と不思議に思った。
女の人は若い美しい娘だった。
山西に水源がなくて困った頃の話である。水田は、ほとんど天水田であった。天水田というのは、自然の雨水をためて耕作する田んぼのことである。特に寒い時の水をためて大事にしとくのである。寒水、雪どけ水は、大へん珍重せられ、夏水にくらべて水のもつ力がつよく、たんぼをまもる力がつよいといって大事にされたものであった。天水田以外は山雨川―蟹子川の流水があったがこれとて川といっても名ばかり、よその溝位のものであった。夏には水がかれて、かんがい用には余り役にたたなかった。
私の小さい時、冬の日に母が水車へ行って米を搗いて来たのをおぼえている。夏場は川の水は朝から翌朝まで、たんぼのかんがい用水として水車をまわすわけには行かなかった。夏の日、冬ためづきした「寒搗き米」でご飯をにてたべていると「スイ」くて変な味がしたが仕方なく文句も言わずに食べたものだった。また、たんぼも天水がだいじで、あぜを特に強くして、槌でたたいてむくろ穴をふせぎ、その上に泥を塗り、藁で日おおいをして更にもう一度泥をぬり水を一滴でも流さないように工夫をこらしたものであった。この天水田を「しる田」といって、夏も冬も水があった。
山西の入口に石の燈籠がたっている。その裏側に明治32年巳亥年8月建立と書いてある。この燈籠は明治末期から大正8年迄、毎夜村人の手によってともされたものであった。
一方では村の道しるべでもあり、他方では神様に対する信仰心から献灯でもあった。
当時、信仰のあつかったのは、お伊勢様、金刀比羅様、小豆島、宮島とオオカミ様であった。
昔、山西から津山のお城下に出る主要道路は、西の道ー越木峠ー春長を通り、松葉峠から野介代を経て、八出の船着場に出て行く道筋が主だった。だから、今でも越木峠の向うに逆迎場(酒迎場)という所があり、小さい社(荒神様)が勧請してある。村(部落)の代表のものが宮詣(お伊勢様にまいり、宮島にまいり、小豆島を巡礼し、金刀比羅まいりをし、近くはオオカミ様に参拝する)のをここまで見送りに来て、平穏無事を祈って酒もりをしたり、又、何事もなく無事に帰って来た代表のものをよろこび迎え、その労を犒う酒もりの場でもあった。新道が山西の東-鹿の子から飯綱坂につづく様に出来たので、新道に展望のきく山西の入口に、明治の人々(明治32年)に建立した信仰と文化の標識でした。
今から約百年も前の事です。
田植がはじまって、田植の最中だったのです。家をしめてだれも田んぼで田植をしていました。
おばあさんは一人早く帰って来て、晩ごはんの用意をしていました。だれもいない家の内はシーンとしずまり返っていました。台所でおばあちゃんは、夕御飯の用意をしていました。
2018年9月17日、つやまNPO支援センターの移転に伴い、津山市コミュニティーセンター「あいあい」で最後の「あいあいまつり」が開催されました。フォーラムでは、「NPO支援センターは、めまぐるしく変わる世の中で、新しい時代の架け橋の役目があったのだろうと思う。」など色々な団体の関係者の皆様が、この18年間を振り返ってお話されました。
平成30年10月1日には「津山市地域づくりサポートセンター」を市内大田のグリーンヒルズつやまリージョンセンター内に設置してオープン記念式典が開催されます。
古池((現・小池)の奥に「石が谷」というところがある。昔、水の便利が悪くて稲が作れず、畑にして大豆をを作っていた。毎年のこと、豆がうれるころとなると兎が出て豆を食い荒らして困っていた。ある年、持主の花戸(ハナト=家号)の六兵衛隠居が腹を立てて、兎退治を思いついた。勢子をたのんだら、早速に治郎兵衛や弟の熊や、虎やんや常やんや、雄治に治太郎など若者が集まって「やろう」「やろう」といきり立った。兎網を用意して、勢子たちは手ごろのこん棒を作った。旧の10月13日だった。畑のまわりに兎網をしかけて、兎の来るのを今か、今かと待っていた。
「なかなかに まきし垣ねはさもなくて そともの方に しげる なでしこ」 小原千座
千座(寛政5年~慶応4年)は江戸時代の豪農、立石家(二宮)の家系に生まれ徳守神社の神官、小原家の養子となった。幕末の歌人平賀元義が美作の名人30人の筆頭に挙げているように美作歌壇の開拓者としての足跡が大きい。三枚橋南 昭和54年10月 設置