狐塚の話『山西の民話』

kitsune-1.jpg 古池((現・小池)の奥に「石が谷」というところがある。昔、水の便利が悪くて稲が作れず、畑にして大豆をを作っていた。毎年のこと、豆がうれるころとなると兎が出て豆を食い荒らして困っていた。ある年、持主の花戸(ハナト=家号)の六兵衛隠居が腹を立てて、兎退治を思いついた。勢子をたのんだら、早速に治郎兵衛や弟の熊や、虎やんや常やんや、雄治に治太郎など若者が集まって「やろう」「やろう」といきり立った。兎網を用意して、勢子たちは手ごろのこん棒を作った。旧の10月13日だった。畑のまわりに兎網をしかけて、兎の来るのを今か、今かと待っていた。


東の空に月が上がったころ、畑の中にゴソ、ゴソと音がする。身を伏せて待っていた勢子たち、とりわけ気の早い治郎兵衛が飛び出そうとするのを雄治が「待て、待て、正体を見とどけてから」とおさえておいてよく見ると、畑の中に確かに動いている。「よーし」と網を立てて一斉に飛び出した。兎は驚いて逃げようとして、網にかかってころんだ。前にいた治郎兵衛が「えたり」とばかりこん棒をふるってなぐりつけた。


兎は「キャッ」といってころんだ。続いて弟の熊や雄治も獲物をめがけてこん棒をふるったから、兎は完全にのびた。「やった」「やった」とみんな小躍りして喜んだ。ふと足元にころんだ獲物をよく見ると、兎でなく狐だった。「ヤァ狐じゃないか」と一同びっくりしたが、「なんでもええ、今夜は一杯やろうで」といって花戸に引き揚げた。
 狐の皮をむくと、白いきれいな身が出てきた。兎汁の代わりに狐汁にドブロクで、いろりのまわりにすわりこんでたらふく食い、腹一杯飲んでうたた寝をした。


何時間かたって、治郎兵衛が小便がしたくなって、家の前の湯殿に出た。窓からさらす月の光に照らされて、よく見ると牛繋場の杭のところにつるした狐の皮の下に何やら動いている。「なんだろう」とよく見ると子ぎつねじゃないか。子狐が四匹、前の足を合わせて、親狐を拝むような格好をしている。治郎兵衛は真っ青になってブルブルとふるえた。早速にいろりのほとりに飛んで帰り「オイみんな起きてみい、狐の子が親狐を!親狐を!」と早口に言うんです。


勢子たちも酔いもさめ「なんだ なんだ」「どうしたんじゃ」と、落ち着かせて話を聞くと「今晩とった狐の子が親を探してきて、親狐の皮の下で拝んでいる」という。「どこい」 「どこい」と、半信半疑で行ってみると、治郎兵衛の言う通り子狐が集まって拝んでいる。みんなびっくりして「オイ、どうするんじゃ!」「たたるぞ たたるぞ」「誰がどうずいたんなら(たたいたんなら)どうずいたもんに一番にたたるぞ」と、ガヤガヤとにぎやかに言った。そのうちに子狐はどこかに逃げてしまった。


そこでみんなで相談して、狐のたたりがこないように、狐の皮や骨や一斎をまとめて石が谷の山の中へねんごろに葬ったんです。これが狐塚のいわれです。私の幼いとき、この道のへりにさんだわらに赤と白のおにぎりとごへいが立ててあって、狐を送っていたのをよく見かけた。
 今でもそこを通ると、なんだかゾーンとするという。ほんまに狐の霊があるんかなと思う。


山西村(詳しくは旧名苫田郡高野村大字高野山西、現在津山市高野山西)の昔の姿を伝えたい念願から、この稿を起こしたものである。
 老人の懐古趣味だと笑うだろうが、私も喜寿の齢ををこして、余命いくばくもなしと思うと、何かしら、山西村の文化遺産が消え去ろうとしている様な錯覚が出て、おしまれる様な気がしてならんので、思い出をつづりました。まだまだあると思うが、一応この辺で打ち切りました。
 これらの民話は、私の子どもの頃、祖母が折にふれて物語ってくれた話をもとにして書いたものである。大方の皆さんの御指導と御批判を頂きたいものである。          
1985年7月1日著者しるす。故高橋明治(たかはし・あけはる)/明治39年3月22日津山市高野山西生まれ


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