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津山城完成400年記念「徳守神社の秋の大祭」

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本年、津山城完成400年を記念し、従来行われていた徳守神社大祭を大きく進化させ、その一つの姿として、奴通りにて新たにお旅所を設け、津山総祓神事を執り行うこととなりました。
 当社は、1604年に津山藩初代藩森忠政公にて現社地に造営されました。当時はまだ不安定な時代で津山城築城に当たり、津山城とその城下町の守護神として造営されたと伝えられています。大坂夏の陣にて使用された鉄盾を森公が当社に奉納されたのもその証の一つと言えるでしょう。
 この度の徳守大祭は、当社の時代背景の具現化を目指し、甲冑と火縄銃をテーマに企画されております。当時津山でも組織されていた津山城鉄砲隊が、その子孫により復活をしており、今年よりと徳守大祭に初参加いたします。また、古くは徳守大祭の神輿行列はカ甲冑を装着しての所役もあり、この故事から現在甲冑を正装として活躍されている、備州岡山城鉄砲隊にもご参加いただきます。(文:徳守神社案内より)(2016年10月23日撮影)

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加茂の戸賀神社(子守様)

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子守様(かもの夜話から) (2015年11月12日取材)
 戸賀の氏神様は、子守宮といいイザナギ・イザナミの夫婦神を祭祀してある。
 むかしから嬰児の夜泣きに霊験があり、夜泣きのはげしい子を持ったものが、参詣して「お猿のぬいぐるみ」をお借りして帰り、子供の着物の襟につけ、御利益を得てお礼参りの時に「お猿のぬいぐるみ」を二つにしてお返しする。近時、霊験あらたかにして、参拝者が多くなってきています。
 秋の大祭は9月9日であり、冬祭りは12月10日、神様所有の田にできた米で当番三軒で甘酒を作り、甘酒祭りをした。
 明治末期、神社合祀で塔中の軒戸神社に合祀したが、その後分離帰村して、もとの宮地に鎮座します。今は、春の例祭は4月10日、秋の大祭は10月10日に執り行ない、傘鉾の御神事があります。
大勢の方々のご参拝をお待ちしております。 戸賀部落  加茂町観光協会

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2015年 (二宮)高野神社の秋祭り

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 高野神社の秋祭りが2015年10月25日(日)執り行われました。午前中は神事が執り行われ、神社境内で巫女舞い、獅子舞などの踊りがありました。その後、宇那提の森(ムクノキ)まで神輿ご巡幸があり、神楽や獅子舞が奉納されました。また、午前11時から各町内から11臺の山車・飾り山車がウエストランドに集合し、美作大学沖縄県人会によるエイサーの踊り、作州銭太鼓の演舞等のイベントが開催された後、各だんじりはお旅所に集合し、傘鉾の御神幸が厳かに執り行われました。(2009年の秋祭りの様子はこちらから

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河辺神社お旅所(津山市河辺)

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 河辺町内中心地上の町(桝形)のほぼ中央に位置し、普段は広場になっていますが、河辺神社のお祭りの際には、御神輿の中継場所とし使われ、御神輿で運ばれたご神体が一時滞在し、お宮と同じく子供による舞が奉納されます。
 今の場所へは戦後移転されたもので、昔は東坂のすぐ近くにあり、出雲街道を通る殿様への恭禮の場所として使われていたそうで、御禮場と呼ばれ屋号も残っています。

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宇那提森(うなでがもり)のムクノ木(二宮)

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★宇那提の森(ムクノキ)(市指定天然記念物)2013年4月8日取材
巨木のムクノキは、古くから古歌にも名高い名所「宇那提が森」の跡で、もとは繁り栄えた森林でした。しかし、天正年間(1573年頃)宇喜多直家が防塁するため伐採したため、このムクノキ株のみが残ったと伝えられています。推定樹齢は700年で、主幹は根元周囲4m、高さ約10mです。

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2012年 美作総社宮の秋祭りがありました。

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2012年10月15日、美作総社宮の秋祭りが執り行われました。

 宮の略記:今を遡ること千四百年以上前の事ですが、欽明天皇の御代二十五年、大己貴命(オナムチノミコト=大国主命)を御主祭神として御祀りされたのがそもそもの始まりでございます。当初は、現在地よりも西の神楽尾公園の下あたりに祀られていたらしく、現在の場所にお遷しされたのは、元明天皇の御代、和銅六年に備前の国より美作の国が別れ、この地に国府が置かれ、相殿(アイドノ・同じ社殿内)に一宮(中山神社)の神と二宮(高野神社)の神を始めとして、美作の国九百十二社の神を合祀(ゴウシ)され、始めて総社宮と言う御社名が付けられたそうです。
 古くは国司等が祭典ごとに参列し、美作の国の総鎮守神として、地域内はもとより、国中の人々がこぞって参拝していたとのことです。
 その後、永禄五年(四百三十四年前)には、毛利元就公が今の御本殿の原型を造営され、社領をも寄進されました。元和八年には、森忠政公が、また明暦三年には森長継公が大修理を行いました。
 時は過ぎ、明治の時代になり、全国の総社の中で、当社のみが国宝に指定されました。

 指定の理由は、建築様式、彫刻などは言うまでもありませんが、御本殿本柱十六本の根元に、約一寸二・三分の根空が十文字に刻んであることです。理学博士・川村清一氏の発見に関わるもので、当時の大工が防虫に意を注いで刻んだものであります。全国の神社では、日光東照宮、大和談山神社の山門と当総社宮本殿の三ヶ所に在るのみだそうです。法改正により現在は国重要文化財に指定されていますが、国の宝、美作の地区の宝・氏子の宝であります。(文:美作総社宮造営記念誌より抜粋)前回の取材はこちら

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物見神社の花祭り(岡山県指定重要無形民俗文化財)

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 物見神社の花まつりは、氏子が五穀豊穣を感謝し、家内安全などを祈願して造花を奉納し、御神幸に彩りを添える行事です。

 物見は3地区あり、傘型の花は、各地区で桜・柳・梅の3種類にわかれています。各地区の村人がそれぞれの地区に集まり、手分けして1日がかりで、柳・竹・色紙などを使い、趣向をこらして作成するもので、大人1人では支えられないくらいの重さのものです。作られた花は、祭り当日の朝、組み立てられ神社に奉納されます。午後、お旅所での神事の後、境内で太鼓の合図と同時に参拝者が取り合って持ち帰り、厄除けとして飾っておきます。また、輪にして屋根の上に乗せておくと火除けになると言われています。(県指定重要無形文化財)

※花の取り合いが終わった後、境内下の運動場で餅投げが行われます。又、前日の夜と、当日の午前中、だんじりに子どもを乗せて、物見ゼンチクをまわります。(今年は小雨が降ってもち投げは境内でなされました。)2012.10.28日取材(文:加茂観光センターより)


 物見神社は大正二年四月二十二日、浦栲の素盞鳴神社、天満神社境内にあった稲荷神社を合祀して旧天満神社跡にまつり、大字物見の名称を社号とした新しい氏神であり、祭日は四月十八日であった。その後、昭和二十四年、上加茂神社に合祀された旧氏神の天満神社を遷座して今日に至っている。2012.10.28取材(文:加茂町史より)


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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群(2012.1取材)
 田熊西山集落の南側にある丘陵上の平坦地は、八幡宮の神事場となっている。神事場とは、お御輿のいわゆるお旅所のことである。祭礼のとき、田熊八幡宮を出たお御輿は、左折して西ノ谷集落に入り、南側の神事場参道の坂道をいっきに上って、ここで神事を催した後で、休憩をしている。神事場は、今でこそ片隅に石垣の御輿台を残すのみで、全体が小グランドのようなゲートボール場に様変わりしているが、戦前は、南側の参道と共に松並木の大木に囲まれた草原で、祭礼に多くの幟(のぼり)が立ち並び、神聖さを感じさせられる場所であった。
田熊八幡宮が、あまりにもけわしい坂道を上っていかねばならぬため、足の弱い年寄りや婦人・幼児たちのとって、神事場がお祭りのお参り場所であった。そのため、ここで輿練りなど盛大に神事が行われたことから、大勢の人が集まるようになり、戦前は、出店も数軒構えられるほどに賑わったそうである。

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因幡往来に隣接 山王権現を祀る日吉神社

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日吉神社は聞き伝えによると、滋賀県の日吉大社から持って帰ったと言われています。大国主命の弟をお祀りしているとのことでした。太田町内会の宮総代の下山清さんは「昔は廻り舞台もあったが、終戦後に壊したのではないかと思います。そして、参道脇にはワラ家があって賑やかでした。また、日吉神社はすもうの神様なので境内には土俵があり、よく相撲をしていました。」とお話くださいました。日吉神社には記録も紛失して残っておらず、しかも荒れ放題だったのを下山さん達皆で立て直されたそうです。日吉神社は、川崎太田、玉琳、飯綱、東野介代、野介代東分の各町内会が氏子だそうです。毎年7月13日には「お湯立て」があるそうです。2011年10月16日取材

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