2023 愛染寺のぼたんの花
2023年4月23日に津山市西寺町の愛染寺にぼたんの花を観に行ってきました。毎年4月中旬〜5月初旬には境内の牡丹が見頃です。 愛染寺は西寺町を東西に走る旧出雲街道に面しており、鐘楼門の両脇に仁王堂が付属している珍しいもので、森家二代藩主森長継公祈願所。鐘楼門及び仁王堂は岡山県指定重要文化財となっています。大師堂裏に赤穂義士神崎与五郎生母の墓があります。
2023年4月23日に津山市西寺町の愛染寺にぼたんの花を観に行ってきました。毎年4月中旬〜5月初旬には境内の牡丹が見頃です。 愛染寺は西寺町を東西に走る旧出雲街道に面しており、鐘楼門の両脇に仁王堂が付属している珍しいもので、森家二代藩主森長継公祈願所。鐘楼門及び仁王堂は岡山県指定重要文化財となっています。大師堂裏に赤穂義士神崎与五郎生母の墓があります。
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西登山金屋寺は、西谷の奥の山腹、木ノ口にある。(昭和46年2月10日村指定史跡)
金屋寺創建の由来については明確ではない。人口に膾灸されているところによれば、阿波村はこの地からタタラ稼業の集団によって開発された。
阿波村の地は、良質な砂鉄を含んだ真砂土(風化花崗岩)の山が多く、タタラ製鉄の跡と思われる鉄滓の散乱したところや、タタラ製鉄にまつわる地名も多く、古代から近世にかけてタタラ製鉄が行われていたことがしのばれる。
本来、タタラ製鉄に従事した稼業集団の人たちの信仰したのは金屋子神を祀る習慣をもっていた。金屋子神は自分たちの稼業の安全と加護を願って信仰する神であった。したがって、金屋子神も社はいわゆる自分たちの職場のところに建立されたものと考えられる。
津山市加茂町物見奥土居にある物見奥大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第28番札所)です。
奥土居の防火水槽前の県道の上にあり、本尊は阿弥陀如来です。
加茂町大字知和の千磐(ちいわ)神社の駐車場に建立されている加茂郷88ヶ所霊場第32番札所があります。比較的新しく建て直されたのか新しく綺麗です。本尊は弘法大師です。
矢筈城址上り口にある千磐(ちいわ)神社・千磐(ちいわ)神社のスギ・津山市指定天然記念物「臥龍藤」藤の花・矢筈神社(2021年5月9日撮影)
今回は、令和2年3月28日の小雨が降る中を、勝北歴史研究会のみなさんと歩いた植月御所散見の様子です。岡山県の神社庁のHPでも調べましたが、それらしき神社は見当たりませんでした。いつごろ、なぜ豊受神社と呼ばれるようになったのか?
地元では「岡山県勝田郡勝央町植月北に鎮座している豊受神社は王子様(王子権現宮)とも呼ばれており、元旦祭、夏祭り、総日待、冬祭り等地区の氏神様として皆さんが崇拝している神社」とのことです。
秘史 後南朝の仙洞御所の地、高根について「如意輪観音寺跡」貞和3年の石造(宝塔)
酒本武都主氏の親切な道案内により、その幻を求めて歩きました。翌日の令和3年6月4日地区に古い物が多くあることを知ったことにより、せめて石造物の文字だけでも正しく読んでみようと、独り調査に入った。この日私的には大変なものを確認できた。
地元では先人達が、「高仁山長福寺境内 如意輪観音寺跡」と言われる場所には宝塔(仮)があり、それには(判読)「貞和三丁亥天〇〇(1347) 願主 万門」と彫られていることに気づいた。
これは町内で重要文化財指定されている
間 山 四角宝塔康永3年(1344)
一本松 如意経塔延文6年(1361)
東光寺 油地蔵 康暦2年(1380)県指定
この中では二番目のものである。手水鉢には昔は髙仁であったとも奉納者が示していた。
かつて秘史を語ってきた人達は以上のことを知っていたのでしょうか。詳しくは後日の調査を待つことにして地元区長へ中間報告することとした。参考文献:『博士 川勝政太郎著 石造美術入門・同 石造美術の旅』より(文:勝央町文化財保護委員会 委員長 赤木耕三)
慈恩山 寶積院 普門寺
当山は、承久2年(1220)に、僧快運によって開創されたお寺です。
初めは峠村(現在の美作市川北)にあったと伝えられ、また、市内藤生字宮の向こうにも普門寺の碑が数基残っています。元禄10年(1697)の記録には、川崎邑慈恩山普門寺云々とあります。これからみますと開基以来、盛衰を繰り返し、峠村から藤生を経て、川崎(現在の美作市江見)へ三転したものと思われます。
本堂は、寛延2年(1749)に中興し、明治34年に再建されていましたが、平成17年に本堂に位牌堂を併設したものを新築し、周辺設備を終えました。
庫裡は昭和55年、客殿は昭和12年、鐘楼は明治2年に再建、鐘は昭和21年に再鋳したものです。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)
松栄山 長正寺(ちょうしょうじ)
本堂の峻険な屋根が目を引きます。
元々当所には、鎌倉時代中期に建立せられた比丘尼寺があり、桃山時代初期まで近くの大庵寺、後釈寺と並んで繁栄していました。
天正7年(1579)、三星城主の後藤勝基が戦火に追われ大庵寺で自刃し、家臣の浮川将監も後を追って殉死しました。その妻が勝基と将監を弔うため、出家し理月妙智尼となり、焼失した大庵寺、後釈寺を取り立て、松永山長正寺を興したといわれています。その子勝吉も出家し、僧慧心となり、住職となりました。
本尊聖如意輪観音は行基作といわれ、脇立の阿弥陀仏、不動明王、毘沙門は同じく行基、あるいは慧心作といわれています。
例年8月18日夕に、施餓鬼供養祭とともに、大数珠回し、盆踊りが行われ、地域の老若男女により賑わいます。
近年檀信徒の切なる願いをもって、長寿ぽっくり観音を祀り、10月の末の日曜日に、大祈願祭を行っています。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月20日撮影)
永慶山 寶持院 光明寺
当山は、天平15年(743)に行基菩薩によって、当時の勝北郡矢田邑高岸(現在の美作市矢田)に開創されました。承元2年(1208)に、現在の美作市和田(当時の勝南郡和田村)に移転しました。
矢田高岸の寺跡には、池や井戸などがあり、今でも当時の面影を残しています。
当時の山号は、随喜山と称していましたが、後に永慶山と改称しました。
熱心な檀信徒の厚い信仰と菩提心により、平成13年の本堂に引き続き、23年の庫裡と、次々に伽藍が整備されました。近隣に類をみない荘厳・雄大な建築です。境内には樹齢250余年の山茶花(白色)の古木があり、裏庭には樹齢30~40年の藪椿(樹高5~6m)が約200本あり、満開時は見事です。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)
瑞應山 寶珠院 蔵寶寺
当山は、天平年間に行基菩薩によって開創されました。
行基は時の帝であった聖武天皇が発願された東大寺大仏建立の勧進のため、当地に錫を向けられました。その際、宿を乞うあてもなく夜を迎え、野宿をされました。行基は旅の疲れのためすぐに眠りにつきましたが、ふと感じるところがあり目を開けられると、眼前に光明燦然(さんぜん)と輝く明星がありました。よくよく目をこらして見てますと、それは虚空蔵菩薩でありました。
福徳を授けて下さる虚空蔵菩薩がご出現下さるとは、帝の御願成就の瑞祥とありがたく思われました。行基はご出現下さった虚空蔵菩薩のお姿を、自ら一刀三礼して木に刻み、庵を建立し御本尊とされました。
以来、里人の心の拠り所として信仰を集め、今も日々香煙の絶えることがありません。
弘仁年間、弘法大師もこの庵に立ち寄られ、それ以来、真言秘密の法門が当地に伝えられるようになりました。
そして安土桃山時代の文禄年間に、行基が建立した庵の地より、約400m北方の現在の境内地に移転し、今に至っています。
近年、境内にあるイチョウとモミジの古木の、黄色と紅色の紅葉のコントラストの妙趣は一見の価値ありと、参拝される方々に喜ばれています。
また、境内はオキナグサやササユリ等の山野草を始め、シャクナゲ、ハス等の花々が四季を通して境内を彩っています。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月9日撮影)