豊受神社(勝央町)
今回は、令和2年3月28日の小雨が降る中を、勝北歴史研究会のみなさんと歩いた植月御所散見の様子です。岡山県の神社庁のHPでも調べましたが、それらしき神社は見当たりませんでした。いつごろ、なぜ豊受神社と呼ばれるようになったのか?
地元では「岡山県勝田郡勝央町植月北に鎮座している豊受神社は王子様(王子権現宮)とも呼ばれており、元旦祭、夏祭り、総日待、冬祭り等地区の氏神様として皆さんが崇拝している神社」とのことです。
勝北歴史研究会のみなさんと歩く豊受神社参道です。ここらに門があったそうです。
参道です。
神社までは長い階段があります。 神社から見下ろす。
拝殿の様子です。
本殿です。
本殿左側です。 本殿右側です。
ハートの手水鉢です。
天保3年(1832)の手水鉢です。
勝北歴史研究会のみなさんと訪ねる。 鳥居です。
植月御所散見記 令和2年3月
建武元年(1334)御南朝第二代・忠義親王、のちの髙福天皇は植月御所に帰られ、45歳でこの地で亡くなられ、植月北山御所に埋葬された。『東作誌』に依れば、この地を髙仁(たかに)と呼び親しみ、現在は髙根と改称されている。
植月御所に入る南正面入口付近を宮城と呼び、御所の北側を北野と呼んでいる。南の正面入口付近と鳥羽野辺りを南山と呼び、天皇の住まいは北の台地頂上付近で仙洞御所と呼んでいる。
植月御所の途中大門跡と言われるところ、古老に依ると、今は竹藪に覆われ想像すらもできない位になっており、おそらく其の辺りと想像し、特定することができない。
皇統の争い、応仁の乱は11年の長きに亘り、植月御所の波瀾の歴史もすでに700年の月日が立ち、今、ひっそりと髙根神社にその姿をとどめている。
(2020年3月28日撮影)(文:平田安夫さん)
2021年8月28日
日を改めて再度、勝央町文化財保護委員長を務めている赤木耕三さんに案内いただきました。
菊の門があるお墓(明光院殿光仁王大居士 俗名 名光寺正眞)
八代髙仁親王は、植月御所近くに邸を賜り、三代に亘り住む。仙洞御所すぐ下方に由緒ある墓が六基あり、そこを四郎兵衛屋敷と言っていた。今もその墓の一部が遺っているそうです。